日々の言い分500

延々と、物を書き続けてきた。

おおよそ、40年である。


最初の公の原稿は、占い関係だった。

つまり、今週の運勢とか、今月の運勢の、さきがけだった。


本当は、小説を書いていたが、そんなもので、小説家にはなれなかった。

そして、エッセイである。

これは、依頼されて書いたものもある。

だが、知れている。


それから、好きなことを書くようになる。

そして、現在に至るまで、膨大に、物を書いてきた。


今、現在も、書き続けている。


エッセイは、新聞に連載したものもあるが、書きたいことは、矢張り、気ままに、書くことである。


そんな中で、小説も、自費出版したものもある。


作家になるほど、体力も気力もないから、それで、良かった。

何万人も、作家になる才能を持つが、職業作家にはなれない。


それが、世の中である。

ただし、死後に認められて、大作家と言われる人もいる。


さて、エッセイは、引用することが、多い。

最初は、引用することは、なかったが、多くの人に説得力を持つために、既存の学者、作家等の書籍から、引用する。


つまり、引用できるものを探すという、読書が必要になる。

書いたが、本も、よく読んだ。

ただし、俗にいう、勉強ではない。


心の欲するところに従い、読む。

すると、学問という世界とは違う、世界が拓ける。


つまり、学問という、世界とは、別の世界を作り上げることが出来る。


それは、通常のアカデミズムと言われる、世界とは、別である。


私のだけの、世界である。

私だけの、学問である。


そして、それで、いい。

それ以上を求める必要はない。


更に、名文を書くつもりもない。

逆に、読みにくい文を書く。


句読点、点が多くなる。

読むのに、面倒な文になる。


あえて、読みにくい文にすることを、命じて書いたものが、数年間続いた。


勿論、名文家のものも読み、感心する。

上手いと心底思う、文も多々ある。


ただ、何を伝えたいのか、それが、問題だ。


伝えたいことがあって、物を書くのである。

だから、伝えたいことが無ければ、書く必要がない。


文章を書くという態度は、人それぞれ。

百人百様である。

その、百人百様が、いい。


では、私の一番伝えたいことは、何か・・・


実は、解らないのである。

私は、何を伝えたいのか・・・


私自身の伝えたいことは、妄想であるとしか、言いようがない。

単なる妄想を、心を込めて、時間を使って、書くという行為を、何と呼ぶのか、解らない。


物語・・・

あるいは、物語をしているのかもしれないと、思う。


それは、生きているのと、同じである。


つまり、書くことは、生きることであり、それは、妄想であるということ。


実に、恐ろしいことである。

人間は、本当は、存在しているといいつつ、その存在の根拠がないモノなのかもしれない。


生死という言葉があるが・・・

そして、それに対する、様々な考え方があるが・・・


本当に、生死という言葉の意味を知るのだろうか。

この頃、私には、生きるも、死ぬも、同じことに思えるのである。


生死一如という言葉があるが・・・

仏教である。

だが、別に仏教ではなくても、生死は、同じである。


つまり、生きても、死んでも、同じ事なのであるという、当たり前のことに気づく。


そして、それらが、妄想なのである。

つまり、この存在は、妄想であり、生死も、妄想であると、したら・・・


何処にも、実体がない。


だから、何でもいいから、書く。

逆説である。


どうせ、妄想なのである。

何を書いても、どうでも、いいのである。