もののあわれについて986

男君も、しひて、思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方、おはしたり。やがて端に御しとねさしいでさせ給ひて、中の宮「いとなやましき程にてなむ、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえいだし給へるを聞くに、いみじくつらくて、涙のおちぬべきを、人目につつめば、しひて紛らはして、薫「なやませ給ふをりは、知らぬ僧なども近く参り寄るを、くすしなどの列にても、御簾のうちには候ふまじくやは。かく人づてなる御せうそこなむ、ひとよ物のけしき見し人々、「げにいと見ぐるしく侍るめり」とて、もやの御簾うちおろして、夜居の僧の座に入れ奉るを、女君、まことにここちもいと苦しけれど、人のかく言ふに、「けちえんならむも、またいかが」と、つつましければ、もの憂ながら少しいざりいでて、対面し給へり。





男君、薫も、無理をして、心を抑えかねて、いつものように、物静かな夕暮れにお出でになった。

そのまま、簀子に敷物を差し出させて、中の宮が、酷く気分が悪い時です、お話し申し上げられません。と、取次の者を使い、御簾の中から、おっしゃると、酷く辛くて、涙がこぼれそうになるが、人目を憚るので、無理に隠して、薫は、ご病気の際には、ご存じの無い僧など、身近に上がりますが、医者などの扱いで、御簾の中に、控える訳にはいきませんか。このような取次のお言葉では、参上したかいがありません。と、おっしやり、つまらなさそうな顔で、先夜、お二人の様子を見ていた女房たちが、本当に、こんなところでは、見苦しいようです。と言い、母屋の御簾を下し、夜居の僧の座に、お入れするのを、女君は、本当に気分が悪いのに、皆が言うから、はっきりと断っても、どうかと、遠慮されるので、いやいやながら、少し、膝を進めて、お会いになった。





いとほのかに、時々物宣ふ御けはひの、昔の人の悩みそめ給へりし頃、まづ思ひいでらるるも、ゆゆしく悲しくて、かきくらすここちし給へば、とみにものも言はれず、ためらひてぞ聞こえ給ふ。こよなく奥まり給へるもいとつらくて、すの下より几帳を少しおし入れて、例の、なれなれしげに近づき寄り給ふが、いと苦しければ、わりなしと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、中の宮「胸なむ痛き。しばしおさへて」と宣ふを聞きて、薫「胸はおさへたるはいと苦しく侍るものを」とうち嘆きて居なほり給ふ程も、げにぞしたやすからぬ。





ほんのかすかに、時々、物をおっしゃるのは、昔の人の御病気になったところが、すぐに思い出されるのも、不吉で悲しい。目の前が暗くなる気分がする。急には、何も言うことが出来ず、しばらくしてから、申し上げる。奥の方にいらっしゃるのがつらく、簾の下から几帳を少し奥にやり、例によって、馴れ馴れし気に、近づき寄られるのが、気になるので、困ると思いなので、少将という人を近くに呼び寄せて、中の宮は、胸が痛いので、しばらく押して、とおっしゃるのを聞いて、薫は、胸は押しますと、とても苦しいものです、と、ため息混じりに、居ずまいを正すと、内心では、不安な気がする。





薫「いかなれば、かくしも常になやましくは思さるらむ。人に問ひ侍りしかば、しばしこそここちあしかなれ、さてまたよろしき折あり、などこそは教へはべしか。あまり若々しくもてなせ給ふなめり」と宣ふに、いと恥づかしくて、中の宮「胸はいつともなくかくこそは侍れ。昔の人もさこそはものし給ひしか。長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべる」とぞ宣ふ。「げに誰もちとせの松ならぬ世を」と思ふには、いと心ばるしくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳のひとつには心えさせながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなし給ふを、げにありがたき御心ばへにも、と聞きいたりけり。





薫は、どういう訳で、このように、いつもお加減が悪いのでしょう。人に尋ねましたら、暫くの間は、気分が悪いが、そのうちに、また、良くなる時があると、教えてくれました。あまり子どものように心配され過ぎです。と、おっしゃるので、恥ずかしくて、中の宮は、胸は、いつともなく、こうなるです。亡くなった方も、こんな様子でした。長生きが出来ない人のかかるものだと、皆も言っています。と、おっしゃる。

成程、誰もが、千年も生きる松のようではないと、思うと、気の毒で、可哀そうに思うので、この呼び寄せた女房が聞くのも憚らず、聞き苦しいことは省いて言わないが、昔から思いを掛けたことなどを、あちらの耳には、解るようにしつつ、少将の耳には、聞こえないように、体裁よく、感じの良い、言葉遣いで言うので、成程、世に稀なお心の方だと、少将は、聞いている。


げに誰もちとせの松ならぬ世を・・・

古今集

憂くも世に 思ふ心に かなはぬか 誰も千年の 松ならなくに





なにごとにつけても、故君の御ことをぞ尽きせず思ひ給へる。薫「いはけなかりし程より、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、さるべきにや侍りけむ、うときものからおろかならず思ひそめ聞こえ侍りしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがにたがひやしにけむ。なぐさめばかりに、ここにもかしこにもゆきかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、まぎるる事もやあらむ、など、思ひ寄る折々侍れど、さらにほかざまには靡くべくも侍らざりけり。よろづに思ひ給へわびては、心のひく方の強からぬわざなりければ、すきがましうやうに思さるらむ。と、はずかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりの程にて、時々思ふことを聞こえ承りなどして、へだてなく宣ひかよはむを、誰かはとがめいづべき。世の人に似ぬ心の程は、みな人にもどかるまじく侍るを、なほうしろやすく思したれ」など、恨みみ泣きみ、聞こえ給ふ。





何事につけても、亡くなった、姫宮のことを、果てもなく思っている。

薫は、幼かった時から、俗世を捨てて、一生を終わりたいとの気持ちばかりを、持ち続けていましたが、運命でございましょうか、打ち解けはしかなった。並々ではなく、お慕い始めた一言で、あの念願の、出家心は、やはり、外れてしまったのでしょうか。その慰めのために、あちこちの女に、かかずらわって、女の様子を見るにつけ、悲しさが紛れることもあろえかと、考えてみることも、何度かございました。どうしても、他の女には、気持ちが動きませんでした。色々と考えあぐねて、心を強く惹かれる女がいないものですから、好き者のように、思いであろうと、気になります。嫌な気持ちが少しでもあれば、いけないじょう。ただ、これくらいのことで、時々、思うことを、申し上げ、また伺ったりして、心置きなく、お話し合いをしましても、誰が、咎めることをしましょう。世間の人に似ない、私の性質のことは、誰からも、非難されるはずがないのです。どうぞ、安心してください。などと、恨んだり、泣いたりして、申し上げる。