もののあわれについて989

宇治の宮を久しく見給はぬ時は、いとどむかし遠くなるここちして、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。いとどしく風のみ吹き払いて、心すごくあらましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。見るには先づかきくらし、悲しきことぞ限りなき。





宇治の宮を、長い間、見ていらっしゃらない時は、益々、昔が遠くなる気持ちがして、何となく、心細いので、九月二十日過ぎに、お出でになった。

一層のこと、風ばかりが辺りを吹き払い、寂しくなるほど、荒々しい川水の音だけが、邸の宿守で、人影も見えない。邸を見るにつけ、何よりも、胸が一杯になり。悲しいことは、限りない。





弁の尼召し出でたれば、障子口に、青鈍の几帳をさしいでて参れり。弁尼「いとかしこけれど、ましていと恐ろしげに侍れば、つつましくてなむ」と、まほには出でこず。薫「いかにながめ給ふらむと思ひやるに、同じ心なる人もなき物語も聞こえむとてなむ。はかなくも積もる年月かな」とて涙をひと目うけておはするに、老人はいとどさらにせきあへず。弁尼「人の上にて、あいなく物を思すめりし頃の空ぞかし、と思ひ給へいづるに、いつと侍らぬなかにも、秋の風は身に染みてつらく覚え侍りて、げにかの嘆かせ給ふめりしもしるき世の中の御有様を、ほのかに承るも、さまざまになむ」と聞こゆれば、薫「とある事もかかる事も、ながらふれば直るやうもあるを、あぢきなく思ししみけむこそ、我があやまちのやうになほ悲しけれ。この頃の御有様は、なにか、それこそ世の常なれ。されどうしろめたげには見えきこえざめり。言ひても言ひても、むなしき空にのぼりぬる煙のみこそ、誰ものがれぬ事ながら、おくれさきだつ程は、なほいといふかひなかりけり」とても、また泣き給ひぬ。





弁の尼を呼び出すと、障子口に、青鈍の几帳を差し出して、参上した。

弁尼は、畏れ多いことですが、以前よりも、もっと醜いことですので、遠慮いたします。と言い、顔を出さない。

薫は、どのように、物思いに耽っていらっしゃるかと、他に話の出来る人は、いない。そういう話でも、申そうかと思って。儚くも、過ぎ去る年月だ。と言って、涙を目に一杯浮かべている。老人は、それよりも、涙を抑えることが出来ない。

弁尼は、妹宮のことで、姫宮がお気の毒に、お嘆きになった頃と、同じ空模様だと、思い出します。いつということはありませんが、特に、秋の風は身に染みて、辛く感じます。本当に、姫宮がご心配あそばした通りの、お二方のご様子を耳にしますと、あれこれと、考えます。と申し上げるので、薫は、あのようになったこと、こうなったこと、長生きすれば、いずれは、よくなることもあるが、困ったと思い詰めていらしたのは、自分の責任のようで、悲しい。この頃の様子は、何の、それこそ、世間普通のこと。中の宮の心配されないようにと。言っても、言っても、何も無い、大空に登った煙りだけは、誰も、逃れることは出来ないとはいえ、後れ先立つ間は、矢張り、とても悲しいことだ。と、また、お泣きになった。





阿闍梨召して、例の、かの御忌日の経仏などの事、宣ふ。薫「さてここに時々ものするにつけても、かひなき事の安からず覚ゆるがいとやすくなきを、この寝殿こぼちて、かの山寺のかたはらに堂建てむ、となむ思ふを、同じくはとく始めてむ」と宣ひて、堂いくつ、廊ども、僧房など、あるべき事ども書き出で宣ひなどせさせ給ふを、あざり「いと尊きこと」と、聞こえ知らす。





あざりを、お呼びになって、いつものように、かの人の一周忌の供養の経典や、仏像などのことを、おっしゃる。薫は、それはそれとして、ここに時々参るにつけても、今更、仕方がない事が、くよくよ思い出される。役にも立たないし、この寝殿を取り壊して、あの山寺の傍に、堂を建てようと思う。同じ事なら、早く始めよう。とおっしゃり、堂を幾つ、渡殿や、僧房など、出来上がりの様など、書き出して、おっしゃると、あざりが、まことに尊いことです。と、教え申し上げる。





薫「昔にの人のゆえある御住まひにしめ造り給ひけむ所をひきこぼたむ、情けなきやうなれど、その御心ざしも、功徳の方には進みぬべく思しけむを、とまり給はむ人々思しやりて、えさはおきて給はざりけるにや。今は兵部卿の宮の北の方こそはしり給ふべければ、かの宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら寺になさむ事は便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。所のさまもあまり川づら近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失いて、ことざまにも作り変へむの心にてなむ」と宣へば、あざり「とざまこうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年頸にかけて侍りける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍の袋を捨てて、つひに聖の道にも入り侍りにける。この寝殿を、御覧ずるにつけて、御心動きおはしますらむ、一つにはたいだいしき事なり。また後の世のすすめともなるべき事に侍りけり。急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申して侍らむ目を承りて、物のゆえし知りたらむたくみ二人三人を給はりて、こまかなる事どもは、仏の御教へのままに仕うまつらせ侍らむ」と申す。とかく宣ひ定めて御荘の人ども召して、ひの程の事ども、阿闍梨の言はむままにすべきよしなど仰せ給ふ。はかなく暮れぬれば、その夜は泊まり給ひぬ。





薫は、亡くなった、宮様が、結構なお住まいとして、お造りになった所を壊すのは、情の無いようだが、宮様のお気持ちも、功徳になる方にしたいと、思いだったろうが、後に残る方々のことをお考えになって、そう命じられなかったのだろう。今は、兵部卿の宮の、北の方が所有されるはずのことで、あの宮の、御料地ともいえることになった。だから、ここを、このまま寺にすることは、具合が悪いだろう。思うままにすることも出来ない。場所も、あまり川岸に近いので、人目にもつく。やはり、寝殿を壊して、別な形に、作り替えようというつもりだ。とおっしやる。

あざりは、あれにつけ、これにつけ、誠に、ありがたいお心です。昔、死別を悲しみ、屍を包んで、長年の間、首にかけておりました人も、仏の教えで、その死体の袋を捨てて、とうとう、仏道に入りました。この寝殿を御覧になるにつけ、お心が動くのは、一つには、良く無い事です。また、後世のためにもなるはずのことです。急いで、いたしましょう。暦の博士が、取り図らう日を伺いまして、作り方を知る職人を、二人、三人いただいて、細かなことは、仏様の教えに、お任せいたしましょう。と申し上げる。

何かと、決定の言葉があり、御料地の人たちを呼び寄せ、今度の事など、あざりの言う通りにするよう、指図される。

いつの間にか、日が暮れたので、その夜は、お泊りになった。