神仏は妄想である587

フランスの異端審問官ジャン・ボダンが「国家論」を記し、「主権」の概念を定義した。観察と実験による魔女狩りの専門家であるボダンが、近代政治学におついて最も重要な概念を発明したのは皮肉である。

倉山


主権とは、地上において、主、神の力を代行する権力のこと、である。


ボダンが生きた、中世末期のフランスは、三アンリ戦争の余波でモザイク模様の宗教分布になっていた。


アンリ四世が、カトリックに改宗して、国教をカトリックに定めたといっても、プロテスタント、ユグノー派の抵抗が激しく、更に、貴族の反乱が結びつき、歴代国王は、悩まされ続けた。


そこで、国王に、権力を集中して、国家を統合しようとする理論が生まれた。


それが、絶対主義であり、ボダンの理論は、王権による、フランス統一に貢献した。


そこまでに至る、労苦は、ルイ十三世に仕えた、宰相リシュリューと、その後継者で、ルイ十四世親政までの路線を引いた、マザランによる。


王権を強化するには、五つの面から、絶対主義を確立して行く。


倉山氏の、指摘を簡潔に書く。


一つは、王権神授である。

要するに、それは、神から与えられたものという意識。


ただし、そこでも、多々殺し合いがあった。

王権神授に逆らう、貴族の反乱である。


二つは、宗教勢力と、諸侯の鎮圧である。

フランスは、常に、神聖ローマ帝国と、スペインの、両ハプスブルク家に挟まれつつ、内戦を抱えていた。


リシュリュー統治の前半は、欧州全土を巻き込んだ、30年戦争に外交的に介入しつつ、軍使的には、内政に専念することにより、王権を確立する。


教会の抵抗は、次の世紀後半の、フランス革命まで続き、教会は、特権を手放そうとはしなかった。


三つ目は、官僚制である。

ルイ十四世の時代に、本格的に、導入された。


四つ目は、常備軍である。

ただし、当時は、金で雇った、傭兵である。


五つ目は、重商主義である。

貿易を盛んにし、国富を蓄えた。


リシュリュー枢機卿は権謀術数でフランス内外から恨みを買い、宗教者としての道徳的評判を落としたが、政治家としては稀に見る無私の人であった。彼が口にした「私の第一の目標は国王の尊厳、第二は国家の盛大」は、「国家理性」と呼ばれる。宗教でも貴族の特権でもなく、「お国のため」という思想を最優先に考えた。

国家主義がいかに穏健な思想であるか、わかるであろうか。

倉山


ちなみに、日本は、200年も早く、絶対主義を先取りしていた。

それは、室町期、三代将軍、足利義満、六代将軍、義教である。


国家統一には、王権の権威が求められた。


武力も経済力も持たない日本の皇室は、政治的及び文化的権威に徹したが、ヨーロッパでは王権そのものが政治動乱の主体であった。

倉山


リシュリューは、同時代のカトリックとプロテスタントが殺し合いを続けた30年戦争には直接的介入を避け、内政に専念した。そして、1636年に満を持して介入したが、このときはプロテスタント側についてカトリックのハプスブルク家を攻撃した。ここに、宗派により敵と味方が分かれる宗教戦争が終焉へと至るのである。世俗的な利己主義こそが、正義を唱える悲惨な宗教戦争を終わらせたのである。

倉山


絶対主義から、主権国家への道を歩み、主権国家が並立することにより、無制限の殺し合いではない、目的限定戦争が可能となっていく。


と、まあ、欧州、白人とは、とんでもない、野蛮さを、知ることになった。

そして、その、創り上げた、宗教、キリスト教という、邪教の有様である。


30年戦争は、30年に、13度の戦争が行われ、10の平和条約が結ばれた。


その原因は、ドイツ地方にも領土を持つ、スペイン・ハプスブルク家が、プロテスタントを弾圧したことから、反対勢力が結集し、ネーデルランド独立戦争と並行で、欧州全体を巻き込んで、大戦争に至った。


ドイツ地方は、その最大の激戦地となり、土地の三分の二が焦土と化し、人口は、四分の一が消滅した。


兎に角も、宗教戦争というが・・・

同じ神を掲げる、同じ宗教である。


ここに、一神教というものの、本質を見る。

ユダヤ、キリスト、イスラム教も、同じく、同じ神を掲げるが、殺し合うのである。


そして、互いに、悪魔である。

相手を、悪魔と見立てて戦う。


これを、呆れる、という。


現在は、準宗教たる、共産主義の中国が、似たようなことを、世界でしている。

また、国内でも。


殺しまくる、のである。


人間は、どうして、戦う必要があるのか・・・

戦わなければ、生きて行けないのか・・・


ヨーロッパの歴史を少し、俯瞰した。

長い歴史ではない。


宗教の蒙昧さを知るための、歴史の瞬間である。

いかに、神仏というものが、人間を蒙昧にさせるのかを見た。


矢張り、ここで、もう一度、神仏は妄想である、と言うしかない。