死ぬ義務56

それでは、再度、安楽死の論理と倫理に戻る。


次は、厭苦死である。


つまり、痛みという苦しみから逃れるための、死である。

それは、身体的苦痛である。


身体的苦痛とは、疼痛、呼吸困難、痒み、烈しくとも、短い発作性のもの、持続して、じわじわと心身を消耗するもの、ひりつくもの、うずくもの、刺すようなもの、えぐるようなもの。

難病特有の苦痛もある。


そして、その痛みは、心理反応として、主観的なものである。

人の、痛みは、解らないのである。


いずれにせよ、痛みが人を苦しめるものだということだ。


古来、哲学では、そのようなものを、悪、と呼んだ。


だが、苦痛は、絶対的に、悪とは、言い難い。


それは、ある上位の目的のための、手段として積極的役割も、果たす。

その苦痛が、生体保全のために、重要な役割を果たすこともある。


痛みは、病的、異常状態における、生体の正常反応である。

つまり、生体維持のための、不可欠な機能を持つとも、言える。


このように苦痛は、たとえ特定の情況のもとに生体保全その他の目的のため積極的役割を果たしうるにせよ、あくまで悪としての本質は解消されることなく残るのであり、その限りにおいてこの世界における不合理なものとして、古来、宗教や哲学において大きな問題とされてきたものであり、その問題性は依然として現実的である。苦痛は人間にとって、あくまで好ましくない、また避けるべく、克服すべきという性格を完全に失ってしまうことはないのである。

宮川俊行


さて、完全な苦痛除去が不可能であることを如実に示すものとして、二つの事実がある。

厭苦死のことである。


他に苦痛軽減、除去の方法が無く、最後の手段としての薬物療法、外科手術で根本的鎮痛、苦痛除去を行おうとする時、これにより、知性が喪失したり、無意識化したり、心理的人格が崩壊し、非人格的生命と化す。

耐え難い苦痛の除去が、人間の現象界における精神的生命の保持と、両立しない場合である。


そして、苦痛除去の手段として、死のみしかない場合。

死という、生命そのものの否定の上に、はじめて苦痛が除去される。


耐え難い苦痛のために、古来もしばしば、自殺という行為も見られる。


医学は合理的に苦痛の軽減、除去が可能であるかぎりにおいてそのための努力をつづけるべきであるが、他方、人には生物的また人格的生命を肯定するかぎり人生における身体的痛みに対し、場合によってはこれを受け入れ、耐えるか覚悟が必要だということである。人生には、どうしても避けられない苦しみがあるのである。

宮川


人間にとり、痛みが深刻な問題になるのは、酷い痛みを耐えなければならないという事態に、それに対して、充分な意味を見出せない時である。


意味の無い痛みに、耐える意味がないと言う事態に陥った時である。


人間は、意味の無いことには、耐えられない。

意味の無いことに、心理的に耐えられないのが、人間である。


痛みに耐えることによって、得られることは、何か・・・


それは、人それぞれである。

だから、他者は、何も言うことが出来ない。


痛みに耐えても、生きろとは、私は言えないのである。


更に、その周辺の人々も、見るに堪えないという、状態である。


いっそのこと、殺してくれという、事態が起きる場合もある。


中国では、ウイグル人の男性が、収容所に入れられた、母親を、殺してくれと、頼む。

つまり、母親が拷問に遭うのは、耐えられないということである。


無意味な拷問に、遭う必要はない。


「死」は二つの意味にとることができる。一つは生物的段階の生命の死で、われわれもここで一応こう解し、従って「合理的鎮静不能」というのも「永久に意識を失わせたり、心理的人格を崩壊させたりするような、いわゆる現象的人格段階におけ生命の死をもたらすことなしに、鎮静不能」としている。だが、死を現象的人格段階における生命の死と解することもできるわけで、その場合、「合理的鎮静不能」というのは「生物段階の生命の死をもたらすことなしに鎮静できぬ」と解せばよい。いずれにせよ、このような「死」と「不治」の理解がどうであれ、すでに見た「尊厳死」の問題と関連することになるわけである。

宮川


厭苦死は、このような生存は無意味である。それよりも、死を望むという考え方である。


合理的に鎮められない、耐え難い苦痛しかない生存は、無意味であると、考える。


それを定義すると、以下になる。


永久不治すなわち合理的に鎮静することは永久に不能であると思われるところの耐え難い身体的苦痛にあえぐ重傷者を、この苦痛から救出するためになされ、しかもこの生命主体の死と意図的または容認的に結びついている行為。


別エッセイで、生きるに意味などない、を書いている身としては、安楽死、尊厳死には、大いに賛成する。


特に、この苦痛に耐えて生きるというのは、非常に難しい問題である。


例えば、宗教など場合は、その苦しみが、云々と意味付けをする。

無駄な意味付けと言ってしまえば、終わるが、苦しみつつ生きるとは、心理的に狂う状態ではなければ、理解出来ない。


勿論、死ね、と言うのではない。


後々で、自殺についても、書き続けるが、容認できる、自殺もある。

容認といっても、私が容認するだけである。


生きるに意味があるというならば、死ぬにも、意味がある。

生まれたことが、必然であれば、死ぬことも、必然である。

或いは、偶然というならば、共に、偶然である。


実は、死ぬも生きるも、それほど、重大な意味があるわけではない。