死ぬ義務57

厭苦死は、安楽死の、一つの形である。

19世紀以来、論じられてきた、安楽死は、つまり、このことだった。


伝統的な安楽死は、傷病を中心にして見ていた。

それは、傷病が、絶望的に不治であるというものである。


不治であり、結局は、死ぬという意識だ。


伝統的な安楽死の概念において、狭義のおいての、生物段階生命においての、末期という意識である。

瀕死とは、末期である。


つまり、不治で、回復の見込みのない、結局は、死ぬ身であるということ。しかも、瀕死の状態であり、死期寸前に迫った絶望状態である。

あと数日の命。


その間を、ただ、苦しんで生きるのかという、疑問である。


さて、もう一つは、伝統的な安楽死概念においては、苦痛にあえぐ者を、救うための他者の行為ということが、強調される。

しかし、厭苦死の概念の場合は、他者の行為となることは認めるが、この点を、あまり強調しないという考え方である。


厭苦死の場合の、安楽死について、多少のずれがあるが、厭苦死という形で、安楽死の一種として論じるものが、従来の安楽死である。


倫理学上の問題は、人間のすべての生命を尊重するという価値観との、衝突がある。


他人の身体的苦しみに対する、同情心から、苦痛の除去のために、死をという考え方は、生命の尊重という倫理学からは、その要求を充たさないということになる。


日本では、戦場にて、深手を負う者に対して、武士の情けで、すみやかに死なせる行為がある。


そこで、やがて、介錯が生まれ、そして、切腹に伴う、一定の儀式が出来た。

まさに、厭苦死の、典型である。


現在も、長い患いを持った者が、その家族に、死を願うことが、多々ある。しかし、それは、殺人罪と認定される場合も、また、多々ある。


介護の現場では、身体的なことより、精神的に、苦痛を感じて、死を望む人もいる。


それは、身体的には、自分で何も出来ず、ただ、頭脳だけが、明晰な場合、介護する者に、殺してくれと、頼む。


そのような事件は、数多くある。

もし、法整備が整い、安楽死法案などが制定されれば、解決する。


何故それが、出来ないのかは、倫理学上の問題と、日本の医者たちによる、生命尊重の考え方があるのたろうと、思う。


もっと、下劣なことを考えると、患者は、金を生む種であるとも、言える。


寝たきりの人は、病院の経済を成り立たせせているのだから。


それでは、倫理的に、厭苦死を、どう評価すべきかを考えると、従来の安楽死論において、通説では、直接的に死をもたらすことを目指して、積極的行為、積極安楽死、作為安楽死でもある、それは、咎なき人の、直接的殺人として、許されないことと、他方では、延命のための努力をしないで、致死させるもの、それを、不作為安楽死と言う、そして、死を早める危険は予測されるが、これもやむを得ずとして、苦痛の除去軽減を、直接的に行うという、間接安楽死がある。


最後の、間接安楽死は、許されるものだった。


倫理的に許されるものと、許されないものとの、区別をつけるという、考え方もある。


そこで、倫理的な安楽死を追及すると、問題が、どんどんと出てくる。


厭苦死は、存在論的に見て、矛盾した行為となる。


それは、その行為の基礎をなす発想が、存在界の秩序を逆転的に捉えているという。


痛みは、形而上学的に見れば、悪である。

それは、それ自体としの存在性も意味も持たず、積極的存在であり、実体である精神的、身体的生命を主体とし、これがある限り、またこれに依存して、はじめて、存在し、意味を持ちうる。

生命、意識あっての、痛みである。

苦痛は、生命の存在への意志の否定的現れと見る。


まず生命があり、生存への要求があるから苦痛がある。

あくまで、主体としての生物的生命、また精神的生命を保持したうえでの鎮静であり、苦痛の除去であるべとの、存在の秩序の要求である。


生存や、精神的生命そのものを犠牲にしてまで、求めるものではない。


抽象的に存在論に即して見る限り、厭苦死は倫理的に正当化されえない。肉体的生命、精神的生命の価値は基本的であり、それの保持の要求は痛みからの解放の要求より強いのである。

宮川俊行


それは、厭苦死は、耐えられないほどに激しく、合理的鎮静不能という身体的痛みを伴い、そこから、逃れる術もない生存を無意味とする、一般的、直接的な断定を元にするが、この判断自体が基礎づけられていないと言う。


つまり、耐え難い苦痛だけしかない生存は、無意味という、普遍的、直接的な断定には、充分な根拠がない。


尊厳死思想を検討しつつ、そもそもある、生存を、意味なし、価値無し、と客観的に充分な根拠をもって、全体的に判定することは、人下兼には不可能であるという、考え方である。


それは、人生の問い、世界の問い、存在意味の問いであり、有限の人間の理性が、合理的に把握し尽くせるものではないという。


逆に考えると、その不合理が、人生の謎となり、存在の神秘であると、考える。


更に、合理的鎮痛が不可能という、判断自体が、可変的であるのに、それを絶対視していることも、問題である。


そして、もし、それが誤った判断だったら・・・となる。


では、倫理は、生命の尊厳を強調しつつ、何を求めるのか。

まず、その苦しみを担うことになった人の、苦痛との戦いに協力し、それを助け、支えて行く事が、人間にとって、大切なことだと、強調する。


そして自由と偶然の支配下にあり、不調和の避けられないこの進化の世界のなかにあって、身体的存在として生きる人間には、この不合理に耐え、全存在界を支配し、従って自己の生存をも支配している究極的合理性を、あくまで信じていうことする勇気が何よりも求められているというのである。

宮川俊行


これは、西洋思想の倫理学からの、考え方である。

その根底には、キリスト教というものが、関与していると、言う。


結局は、倫理学というものの、正体を知ることである。

日本には、日本の倫理学が必要であと、私は思う。