死ぬ義務58

それでは、厭苦死が、倫理的に認められる場合とは、何か、どういう状態かということを問う。

と、共に、宮川氏の、論説を批判する。


そもそも人間の生命は絶対的価値ではないのだ。

宮川俊行


何故、このようなことが、言えるのか・・・

それは、根本に、キリスト教神学があるからだ。


厭苦死拒否は無限度の主張ではありえない。従って現実においては、それ自体としては好ましくない厭苦死をやむをえず選びとらねばならぬ場合も出てくる。厭苦死を選ぶことが倫理的に問題のない正しい選択であることも、例外的ではあるが起こる。それは極限の、すなわち限界的にぎりぎりの状況においてである。

宮川


今まで、宮川氏の論説を見て来たが、兎に角、語ることである。語り過ぎるのである。

つまり、西洋哲学の、語り尽くすという姿勢である。


そのために、混乱を招く。


限界的に、ギリギリの状況においては、倫理的に問題の無い、正しい選択であることも、例外ではないと言う。


そのために、延々と、繰り返し、似たような言葉の繰り返しをして、説明している。


そして、また、同じように、苦痛そのものに、どんな意味があるのか、と、問うのである。


今まで、延々と、苦痛について、語り過ぎたにも関わらず、また、苦痛の説明が続く。

これは、神経症である。


また、神学の学びすぎでもある。

本人は、カトリックの神学博士である。


苦痛は、修徳のため、教育のため、罪の償いのためと、言っても程度がある。倫理的・宗教的理由付けも、これによって基礎づけられる苦痛は、ある程度のもの、ある段階のものまでといえる。

生存の価値は大きいが、状況のいかんによっては、それを犠牲にしてもやむをえないというほどの真に堪えがたい苦痛は、実際ありうる。


だから、厭苦死も、安楽死として、受け入れられるのである。

そこまで、説明して、結論は、厭苦死も、倫理的に、受け入れられるということになる。


だから、以下のような書き込みにもなる。


神が存在する、神が愛である、この世界は不合理ではないということを信じる者も、必ずしも肌で実感できるわけではなく、信仰により受け入れ、確信している面があるのは確かで、それにはされなりの自己の体験における基礎づけがある。

宮川


だが、その信仰も、危機に瀕した場合は、ぐらつく。

それならば、安楽死として、厭苦死を、認める、受け入れるべきだと言う。


信仰の危機に直面した際には、信仰を捨てるより、死ぬべきだとの結論である。


しかし人間的に不可能な事柄の倫理的要求はない、というのが倫理学の説くところである。耐え難く、合理的鎮静不能の苦痛の伴った生存が無意味だとは、なるほど基礎づけられた判断ではありえない。

だが、他方、このような生存に意味があるということも、万人の充分に納得しえない事柄である。世界の究極的な有意味性を自然的・本性適合的信仰をもって受け入れることも、また勇気をもってこれを肯定し存在を肯定することも極度に困難となることが、極限状況においては起こりうるのだ。

宮川


それは人が「今この苦痛からの解放のほうが、生命の存続よりもより重要な価値である。この苦痛からの解放はこの生命の存続を犠牲にしてでも追及されるべき、より大きな価値である」という判断をも倫理的に正当に下しうるような状況である。その際、この生命、この生存は有意味性の観点からは、価値の総体的に低度のものと判断されるのである。

宮川


もう、引用はしない。


ここに来て、結論である。

その前に、延々と語り尽くしたのである。


自己陶酔型の、論説である。


神学的、繰り返しの癖が、著者の物書きの、癖になった様子である。


安楽死の論理と倫理、という著作は、迷う者には、助けになったと思うが・・・


日本人の、死生観を持ってみると、何の事は無い。

単なる、暇つぶしである。


同じ事柄を、別の言葉で、語るという趣味は、西洋哲学の常である。


そして、それを繰り返す。

このエッセイは、死ぬ義務である、から、延々と書き続けるが・・・


日本的には、厭苦死に関しては、もう、苦しむ必要はないと、明確にする。

苦痛を生きると、本人が望めば、そのままに、苦痛の中に置く。


ただ今は、医者が、また、医者の倫理というか、利益によって、生命尊重の考え方だが、いずれ、それも、崩壊して、安楽死容認に至るだろう。


何故なら、日本の場合の、救いというものは、死ぬことだからである。


人生は、死ぬことによって、救われるのである。


人間の救いは、宗教の言う、救いとは、異なる。

この世の人生の、最大の救いは、ただ、ただ、死ぬことである。


それにおまけのように、仏教、その思想的基礎の、輪廻転生をしないという、考え方である。

つまり、もう、二度と、人間には、生まれないという、妄想である。


輪廻をしようが、私と言う存在は、今、この私以外にない。

誰の生まれ変わりであろうと、次の世の私は、その私以外に存在しない。


つまり、輪廻転生も、私の内で、成される行為である。

勿論、その私と言う存在も、妄想であるが・・・