死ぬ義務59

さて、次に、安楽死の変形した、放棄死について書く。


矢張り、宮川氏の論説は、同じ事の繰り返しが多いので、その中の、放棄死の倫理学的評価から、取る。


弱者の生命はその生命としての尊厳ゆえに、それにふさわしく取扱われねばならず、従ってその保全、保持のために必要な場合、他の諸価値が犠牲にされることはやむをえない。・・・

だが個々の人間生命の価値は無限ではなく、従ってその尊重の要求には限度がある。・・・

人間には、倫理的には不可能は強いられない。ゆえに、もしその犠牲がそれを担う連帯者にとって真に不可能なら、これは強いられず、従ってこの場合、放棄死は倫理的にやむをえぬものとして許される。

宮川


大幅に、凝縮して、引用した。


人間的極限状況の場合である。

それが、客観的にも通用する場合は、倫理的に、放棄死は、正当であると、言う。


当然である。

その、放棄死を認めなければ、その連帯者、家族、身内、親族は、その生活の根底から、崩壊する場合が、多々ある。


良心的にある、重要価値については、これの犠牲は、強者にとって人間的に不可能であるとして、その保持、あるいは追及を選択した結果は、連帯者が、弱者が放棄死に委ねられても、倫理的に、非難できない。


しかし人間的極限状況の場合、客観性をもたないものが十分ありうる。共存性を窒息せしめるほど個人性が支配的であるような、自我中心的発想にもとづく犠牲拒否の危険は人間には大きい。

宮川


あるいは、一方的、独断的な思い込み。

誤った観念による、犠牲不能。

負担過重の判断であることも、ある。


その場合の、放棄死は、倫理的に許されないのである。


つまり、人間性の問題となる。


すると、自己犠牲を払い、弱者を守り、その死を延命しようとする人、愛の行為に対して、倫理的も何もない。

その人の、価値観であり、他の者が、放棄死などを、勧められない。


単に、生命を放置するという、考え方である。


倫理的に誤った場合は、放棄死は、許されないと判断される。

だが、その判断を誰がするのか・・・


自分勝手な、放棄死に対して、一体、誰が反対出来るのか・・・


例えば、夫の死後、その母親を即座に、施設に入れて、以後一切、関わらないという人を知るが、罪の意識などもない。


それは、倫理的に許されないと言っても、現実には、その手の話は、沢山ある。


障害者の場合も、多々ある。


生かすか、生かさないかは、認知症や、人格破壊の者には、判定出来ないのである。


そして、自分の意志も、明確に出来ない場合と、多々問題がある。


そこで、宮川氏は、宗教的なものに、価値を置くと言う、一つの指針を示す。これは、紹介する必要がないと、思う。


その説明は、簡単である。

信仰により、介護する人は、その信仰が拠り所であり、それが、価値観であり、生き方である。


他人の障害者を、積極的に世話すると言う、修道者もいる。

そして、それが、信仰の証となる。


ここで、宗教が出て来ては、倫理学も、倫理的も皆無になる。


イエス・キリストが、弟子たちに尋ねられた。

あの、障害のある者は、何故、生まれたのかと、問う。


イエスは、彼らの上に、神の栄光が下ったと、答える。


それが、答えである。

つまり、神の許しの元に、彼らの存在があるのだ。


とすれば、信仰を持つ者は、その、彼らのために、自己を犠牲にする。そして、信仰を深めるのである。


家族が捨てた、病ある人も、信仰を持つ人は、進んで世話をする。

それが、信仰者の生き方である。


宗教が出ると、はなしは、お終いとなる。


宗教的、考え方というものがある。

それは、すべての存在に仏が存在するという、価値観である。


それでは、放棄死など、考えられない。


つまり、倫理を超えるのである。

そして、それは、教化になる。


インドの、マザーテレサなどが、良い例である。

だが、しかし・・・


その半面では、平気で人を殺すという、戦争、紛争がある。

その、戦争、紛争を止めることが出来ない、人間の不幸である。


戦争、紛争で死ぬことは、安楽死ではない。

勿論、憂国の士ともなれば、戦地で死ぬことが、名誉と考える人もいるだろう。


現在の日本は、社会福祉の考え方により、人命重視の考え方をする。だから、放棄死などは、あり得ない。


また、医療関係者の、生命重視である。

患者の希望に応えて、生命維持装置を外した医者が殺人罪に問われて、その裁判では、殺人者となる。


患者の意志でも、手続きを踏む必要がある。

いや、現在の日本では、安楽死法案など無く、死にたい人には、絶望である。