国を愛して何が悪い258

室町末期である。

精神史的には、何があったのか。


歴史はつねに激しい矛盾が、様々な形で共存しているものだ。たとえば河の流れがある。その向こう岸では戦闘や略奪がつづいているとき、川のこちら側では釣りびとが糸を垂れている、といった驚くべき呑気な状態がみられる。

亀井


それは、日本の特徴である。


日本以外の、国、地域では、考えられないのである。

西洋でも、大陸でも、戦闘があれば、住む人が皆、巻き込まれる。


城内に逃げ込まなければ、即座に、相手方に、殺される。


日本の場合は、戦闘は、武士にのみ限られた。

勿論、例外はあるが、日本とは、そういう国柄である。


そこには、朝廷、天皇の思いがある。

庶民を巻き込む戦闘は、天皇の許さないことの、一つであった。

そんなことをすれば、朝廷から、厳しい、叱りの言葉を受ける。そして、それは、権威失墜にもつながる。


さて、永正15年、1518年、編纂された、閑吟集がある。

その最初の序。


ここにひとりの桑門あり。富士の遠望をたよりに庵をむすびて、十余歳の雪を窓につむ。松ふく風に軒をばならべて、いづれの緒よりと琴のしらべをあらそひ、尺八を友として春秋の調子を心むる折々に、歌の一ふしをなぐさみ草にて、ひきゆく駒にまかする年月のさきざき、とひえんきやうの花のもと、月のまへの宴席にたちまじり、声をもろともにせし老若、なかば古人となりぬる懐旧の催しに、柳のいとのみだれ心とうちあぐるより、あるは早歌、あるは僧侶桂句を吟ずる廊下の声、田楽、近江、大和節になりゆく数々を、忘れがたみにもと、思ひ出づるにしたがひて閑居の座右にしるしををく。


桑門が、誰かは解らない。

この当時は、すでに、戦国時代に入っていた。


乱世のただ中に、世を遁れて、草庵を結び、友とした人々の口すさんだ様々な歌を、思い出のうちに集めたのが、閑吟集である。


見事な、生きざまである。

哲学者、思想家と言って、良い。


世間はちろりに過ぐる。ちろりちろり。


何にともなやなうなう、うき世は風波の一葉よ。


ただ何事もかごとも、夢まぼろしや水の泡、ささの葉にをく露のまに、あぢきなの世や。


なにせうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。


このように、全部で、三百余が収録されている。


乱世の所産にしては、頼りなく淡い。一見のんきにもみえるが・・・

無常観の表現である。しかもあきらめきったように、実に何気なく、さらりとした調子だ。

亀井


だから、凄いのである。

世の中から、隔絶してはいないが、距離感を持ち、そして、風流を遊ぶ。


一体、人は、何をしているのだろうか・・・

馬鹿馬鹿しいの、一言である。


現代は、どうだろうか・・・

中国の生物兵器、武漢コロナウイルスを世界中に撒かれて、まさに、乱世の、趣。


日本の領海、領域に、中国の公船が、堂々と入る。

米中の戦争が、まもなく、決定的な形で始まる。


情報戦から、外交戦、そして、全力を尽くして、アメリカが、中国を潰す。

そんな中で、日本は、ウロウロしている。


まさか、負ける中国共産党に付くのだろうか・・・


それならば、呆れて、物も言えない。



そうすると、私などは、なにせうぞ、一期は夢よ、ただ狂え、と言いたくなる。


反日左翼と、反日在日、その他諸々・・・

未来が見えない馬鹿者どもによって、日本が、崩壊するという状況の中で、一体、一人の人間に、何が出来ようか。


勿論、今こそと、日本救済に、全身全霊をかける人たちもいる。

まともな、歴史を伝える人たちもいる。


室町期は、国内の問題であった。

しかし、その室町期に、キリスト教、現在のカトリックが、日本に入ってきた。

それについては、後で、書くことにする。


さて、

この桑門の場合、「異端者」「風狂人」と呼ぶのはすこしきつすぎるかもしれない。普通の風流人のかたちをとっているし、文字どおり「閑吟」にちがいないが、私の言いたいのは、痛切な体験が、逆に「軽み」として表現される場合があるということだ。実は室町末期の文学として注目したいのはこの点なのだ。

亀井


つまり、それは、表では、狂言が出ていることである。

能の中の、一つの、演目にあった、狂言である。


能の中の、軽み、である。


題材は、すべて日常的で、民衆に親しみやすいものである。

現在の、漫才、漫談に近いものがある。


これは、芸の世界としては、見逃せないのである。


仏教の世界は、室町で、すでに、崩壊していた。

僧侶の集団は、その権力に物を言わせて、何をかをやっていたが、民衆は、見抜いていた。


そして、それが、現代にまで、続いている。

それでも、しぶとく、仏教でございと、やっている様は、実に、見苦しい。


日本仏教に、仏陀の仏教などは、皆無である。