国を愛して何が悪い261

さて、耶蘇会の宣教師、フロイスが本国のポルトガルに送った手紙の一節を見る。


この尾張の王は年齢三十七歳なるべく、長身痩躯、髭少し。声は甚だ高く、常に武技を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして、名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧みにして殆ど規律に服せず。部下の進言に従うこと稀なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず。自ら奉ずること極めて薄く、日本の王侯は甚だしく軽蔑し、下僚に対するが如く、肩の上より之に語る。諸人は至上の君に対するが如く之に服従せり。


善き理解力と明晰なる判断とを有し、神仏其他、偶像を軽蔑し、異教、一切の卜を信ぜず。名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後何物も存せざることを明に説けり。


今までに、こんな武士はいたのか。

皆、神仏を頼み、人を殺しては、その供養をしていた。


しかし、信長には、死後の世界も無い。

神仏、偶像も置かない。


まさに、新しい武家、いや、人間の登場である。


ただ、天下統一だけを、目指した。

いや、本当は、何も目的もないはずであるが・・・

権力への欲望か・・・


死ぬのは、当たり前という、至極まともな感覚を持っていた様子である。


すべての武将とひとしく「死」に直面しながら、神仏をたのまず、来世をも願わなかった人の内部に、おそらく人間への深い愛情と人間抹殺の狂気と、それが自分でも収拾出来ないような激烈な矛盾として存在していたのではなかろうか。

亀井


亀井氏の、評価、分析では、解らない。

心理学や、精神病理学では、何と見るかである。


そこで、比叡山の焼き討ちを、もっと、分析しなければならない。

実は、信長は、比叡山だけではない。


元亀四年の、百済寺放火、天正九年の、高尾聖虐殺、同じ年の10月、恵林寺成敗などだが、当時、最大の衝撃を与えたのは、比叡山である。


それが、皆殺しである。


淫乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて・・・

当時の、僧侶たちを、そのように、責めた。


勿論、現在も、そのようであるが・・・

誰も、皆殺しにしない。


寺院の頽廃振りに、激した。

と、共に、浅井、朝倉勢に加勢したのが、動機だが。

それにしても、浅井、朝倉は、親族の関係である。


太平記にも、殺人、放火など、全く意に介さぬ者たちがいたが・・・

それを、更に、拡大させたような、姿である。


異常性格・・・

果たして、異常性格で、かたずけられるのか。


建設するために、破壊するという、真逆な行為があるが・・・

新しい時代を拓くために、必要悪だったのかもしれないと、思う。


比叡山の焼き討ちによって、比叡山が、滅びたか・・・

仏教が、滅びることはなかった。

勿論、まともな、仏教ではない。


多くは、中国仏教によるものである。

仏陀の仏教では、ないということだ。


これでもわかる通り、宗教は、大半が、継続する。

何故か・・・

人間には、妄想が必要だからである。


宗教の呪縛から解放されたとき人間はどうなるか。自己保存と征服のためには大虐殺をも意に介しないという一種の虚無におちいることではなかろうか。

亀井


これは精神史であるから、宗教世界に触れない訳には行かない。


中世の終わりとは時代区分のことではない。室町末期、戦国時代を辿って、いわゆる「近世」を迎えることになるが、政権の移動と中央集権化は第二義の問題である。中世の終わりとは何よりもまず法灯の消滅であることを、改めて認識しておく必要がある。日本人の精神史はここで大きな転回を示すからである。

亀井


推古天皇朝を基点とすれば、仏教は、この時点で、900年の伝統を持つ。

その頂点をなすのは、13世紀の、鎌倉仏教の、宗教改革である。


その影響は、後に、精神史に大きな影響を与えた。

だが、果たして、鎌倉仏教の始祖たちの、その教えが、現代にまで続いているかと言えば、全く、断絶している。


伽藍仏教を否定したが、すぐに、また、伽藍仏教に戻っている。


例えば、法然、親鸞の教えは、どうか・・・

煩悩具足の凡夫の自覚、罪悪感である。

今の、彼らの子孫、教えの子孫は、全く、そんなことは、意に介さない様子である。


浄土真宗という、宗派は、実は、死んでいるのである。


それでは、道元はどうか・・・

戒律と革命と、出家の純粋性の修行は、今は、どうか・・・

全く、普通一般の人たちと、何も変わらない。

それより、酷い生活をしている様子である。


日蓮は、どうか・・・

もう、その組織に安穏として、既得権益の中にある。

勿論、そろそろ、それも、滅びるのだが・・・

誰も、寺には、行かない。


日蓮宗、日蓮正宗共に、何をしているのやら・・・

本当に、先祖供養をしていると思っているとしたら、終わっている。


仏陀は、先祖供養も、墓参りも、葬式にも、関わるなと、説教をした。

全く、真逆のことを、やっている、仏教の輩である。


末法という時代もあったが、今は、仏教などという、宗教も皆無の時代である。

ただ、口先で、仏教と言うのみ。

それは、ただの、詐欺師の集団に、成り下がっている。