国を愛して何が悪い262

13世紀鎌倉の宗教改革にみられたような、あの激しい「決定」と「純化」の世紀を念頭におくならば、室町末期以後から今日までの五百年間とは、一体何であったのか。信仰の弛緩あるいは頽廃の時代と言って過言でない。日本人の思考力(対決と決断、拒否)の衰弱したということである。

亀井


確かに、精神史の一つとして、宗教、その信仰が挙げられるが・・・

私は、亀井は、あまりに、それに囚われていると見る。

勿論、否定はしない。


その間、新興宗教は、どうだったか・・・

溢れる程の、新宗教が現れた。

例えば、幕末などは、新宗教の咲き乱れである。


それは、宗教改革にならないのか・・・

そして、現在も、次々と、新宗教のような団体が、生まれている。

これを、何と見るのか・・・


鎌倉仏教の、評価のし過ぎではないか・・・

確かに、巨大な既成宗教に対しての、プロテストはあった。

そして、個人の信仰の深さ、あるいは、その思索である。


だがそれは、即座に、消えた。

その後の時代は、始祖たちの精神を受け継いでいるのかといえば、真逆である。

鎌倉仏教は、即座に、死滅したのである。


私はそれよりも、新しい日本の哲学の世界を言う。

紹介学問だった、哲学に、日本人による、哲学の世界が拓けたのである。


実は、法灯の消滅は、何も、室町末期に始まったことではない。

平安期末期も、然り。


当時の最大の、宗教的権威であった、南都北嶺に、もはや仏法なし、といった失望感があった。


日本の仏教集団は、いつものことを、繰り返している。

江戸時代の、切支丹禁制が、仏教を更に堕落させた。


国民すべてが、仏教の宗派に所属するという、幕府のやり方に、仏教団は、安穏として、惰性に流れたのである。


つまり、日本の仏教は、いつも、死んでいた。


王朝末期から中世へ移るその峠ともいうべきところにあらわれた二人の人物を、私はここでもう一度ふりかえっておきたい。西行と法然である。中世の終わりに当たって、中世の初めにあらわれた二つの精神を回想しておくのは、法灯の消える日に、何を自覚すべきかを思い出しておきたいからである。

亀井


西行の場合は、精神史にとって、特に、重要である。

何故なら、宗教のみではなく、歌詠みとしての、文学の世界で、多大な貢献をしたからである。


西行の歌に見る、もののあはれ、の心象風景は、見事といえる。

単なる、信仰ではない。

芸術として、評価できる、諸々がある。


哀れ哀れ この世はよしや さもあらば あれ来む世も かくや苦しかるべき


この一首だけをあげておきたい。西行の恋歌として収録されてあるが、彼の求道の無限の思いを述懐したその意味での象徴の詩として受け取って差し支えあめまい。西行は密教の行者であった。・・・同時に浄土教の信者の心境をあらわし、時に法華経の持者であり、また神ながらの道へと畏敬者であった。

亀井


それは、実は、何でもあったと共に、何でもなかったのである。

彼は、歌詠みとして、生きたのである。


その後は、すべて方便である。

つまり、死ぬまでの、暇潰しである。


求道におけるこの複雑で分裂した心境は、彼の抱いた危機感あるいは心の痛手の、どんなに深かったかを物語るものであろう。

亀井


私は、この求道を、歌への道と解釈する。

宗教的な諸々は、ただの、綾である。

何一つ、宗教による、救いなどないと、西行は、見抜いていた。


しかもついに、「唯一の信」に決定することが出来ず、行方を見定めえないままに倒れたが、これが王朝から中世への精神史における正統な道というものであった。

亀井


大切なことは求道の無限性ということだ。それはたとえば世阿弥たちの芸に受け継がれ、利休や芭蕉へとつづいてゆくが、その途中の室町末期百年のあいだに宗教的にはいちじるしく衰弱していたことを指摘しておきたい。

亀井


宗教的に衰弱しようが、芸術があれば、人間は、生きられる。

そして、芸術は、宗教を超える。

宗教芸術という言い方があるが、宗教は、芸術により、永遠性を帯びる。

つまり、芸術行為には、敵わないのである。


日本の精神史で、一なるものは、もののあはれ、である。

それが、様々な形を変えて、変容してゆく様を、精神史という。


亀井は、宗教の信仰によるという、精神史を特に強調するが、それは、西欧思想の影響を受けているだけのことだ。


西洋の、神との対決、という思想的態度を、軽いものとして見れば、何の事は無い。


人間が作り出した、神観念との、対決など、私には、話にならないのである。

つまり、自問自答の様である。


唯一絶対の神という観念に対決するとは、ただ、妄想以外の何物でもない。

そこに、西洋思想の、限界、あるいは、甚だしい、幻想と妄想の世界が広がる。


日本の、もののあはれ、とは、西洋、東洋の思想を、遥かに超えている。


つまり、虚無、空とか、存在とか、哲学思想用語を、超えているのである。

それらを、すべて受け入れて、すでに解消してしまった後に、ただ、生きるという行為に、ある所作を加えたものである。


語らずして、所作に託すという、日本人独自の、生きることの、秘儀を持っている。


生死一如などいう、言葉に、惑わされない、あはれ、の心象風景である。

盆踊りに、敵わないのである。