生きるに意味などない181

人間は存在の本源的カオスのなかに生きてはいない。生きられないのだ。人間として生存することができるためには、カオスが、認識的、存在的、行動的秩序に組み上げられていなければならない。そのような秩序づけのメカニズムが「文化」と呼ばれるものなのである。この意味で、人間は、秩序づけられた、すなわち、文化的に構造化された、「世界」に生きる。

カオスから文化秩序へ。この転成のプロセスを支配する人間意識の創造的働きの原理を、私は、存在の意味分節と呼ぶ。現実的、かつ可能性に言語に結びつく意味単位の網目構造による存在カオスの分節を考えるのである。

筒井 改行は私


カオス、渾沌である。

上記のように、生きられない人たちは、精神病と言われる。


だが、精神病は、その「文化」の中で、生きられない、適応出来ない人たちということになる。


カオスから、文化秩序へと・・・

文化秩序があるから、人間として、生きられると、考えるようである。


言語に結びつくことで、辛うじて、人間の生きる、有様になる様子である。


それでは、幼児は、人間ではないということになる。

人間以前の姿が、幼児である。

しかし、幼児を人間ではないとは、決して、言わない。


あるいは、身体障害の人たちも、人間として、認めている。

人間もどき、とは、言わない。


勿論、人間は、人間であるより以前に、先ず動物である。そして動物もまた、それぞれ自分の「世界」「環境世界」に住んでいる。ということは、すなわち、動物もまた、種ごとに、その生物学的基本要求と、感覚器官の形態学的構造の特殊性とに条件づけられながら、それぞれ違った形で存在を秩序づけている。つまり、生物は、動物的次元において、既に存在を「分節」としているということだ。人間の存在分節のソフィスティケーションに比べて、それがいかにプリミティヴで、単純であるにしても。

筒井


人間も、動物である。

しかし、その動物と、人間は、似ているが、似ていても、それは、非なるものであると、言う。


生物は、動物的次元において、既に存在を「分節」しているということだ・・・


そして、人間も又、それ以上に、「分節」している。

ここまでしても、生きる意味を求める、姿に、感動する。


それが、いつしか、東洋の神秘思想にまでも、至るという、試みである。


妄想も、大枚にして欲しいと、言うものだ。

その存在の意味と、意義を、神秘思想に見出そうとする、試みに、本当に、頭が下がる。


結局、目に見えない世界の、感じ方に、生きる意味を見いだすと言う、人間の哀れさである。


だが、それを知るべきだと、私は言う。

それによって、いかに、人間が、大脳化によって、言語を発明し、そして、その存在意義と、生きる意味に、苦心してきたかである。


勿論、金儲けをして成功した人が、死に直面して、大慌てになるように、それらも、死の前には、何の力にも、希望にも、成らない。


更に、思想により、死ぬ覚悟が出来る人でも、その直前に、大慌てになることもある。


だから、言語による、救いは無い。


勿論、「文化」という、人間固有の、意味分節にも、力は無い。


とことん、それで、絶望するべきである。

哲学、思想、宗教は、何の威力も無いことを、徹底的に、知るべきである。

そして、それで、救われた思いになる人たちは、単に、幻想、妄想に酔っているだけである。


詐欺師である、空海が、単に、仏教を知らずに、生きていることを、酒に酔って生きるようなものだと言ったが、本人が、一番、その教えというのものに、酔っていた。


これを、救いようがない、と言う。

神仏に、お任せして、生きるということほど、楽なことは無い。