生きるに意味などない182

諸他の動物の種と並んで、人間もたんに動物の一つの種として存続するたろなら、この純生物学的存在分節、存在の自然的秩序づけだけで充分であったろう。だが、幸か不幸か、人間はこの生物学的、第一次存在分節の上に、もう一つの、まったく異質の存在分節を付け加えた。それが「文化」と呼ばれるものなのである。この第二次的、非自然的、「文化」的存在分節によって、人間は他の一切の動物から自らを決定的に区別し、動物世界一般から高く超出した。もっとも、それがもとで、人間は、他面、永遠に脱出できぬ一つの獄屋、「言語の獄屋」のなかに自らを閉じ込めることにもなったのだけれども。

筒井


ジームソンの主著の標題をなす「言語の獄屋」という表現は、文化の本質的(否定的) 一側面を見事に描き出す。・・・

筒井


文化の本質的、つまり、否定的であることを、表すという。

呆れるものだ。


「自然」と「文化」との間の、境界線は、言語であると。


つまり、大脳化により、言葉を発明した、人間の、動物からの堕落と言える。

だが、果たして、それを、動物からの、堕落と見なして、納得するものか。


西洋、つまり、キリスト教の影響の大であるところのもの。


それは、即ち、神が人間に、自然を支配する力を与えたという、考え方である。だから、自然破壊などは、朝飯前である。


西洋文明、文化が日本に入り、まず、自然破壊が当然の如くに始まった。


動物に対しても、どのように扱ってもいいのである。

食う、煮る、焼くと、実に、甚だしい扱いである。


そして、そんな中で、生まれた、偽善がある。

動物愛護の精神である。


更に、鯨は、哺乳類だから、殺すな、である。

散々に、鯨から油を搾り取り、その後は、捨てるという、野蛮さは、まさに、キリスト教白人の、面目である。


ちなみに、日本の捕鯨は、そのすべてを感謝して頂くという、実に、愛のある行為だった。


さて、いちゃもんを付ける。

自然と、文化との間の、境界線が、言葉であるということに、である。


それは、人間は、自然とは、一線を画すということである。

人間は、未来永劫、自然の中には、住めないということだ。


勿論、一時的に、自然に遊び、癒されたと、勘違いしている人、多数。自然は、ただ、存在するだけで、人間を癒すなどいう、意識は、さらさら、無い。


更に、自然が語ることは、言葉ではない。

ただ、存在している。そこに在るというものが、自然である。


しかし、西洋の庭造りなどを見ると、完全に自然破壊である。

自然をそのままにして、楽しむという心得がない。


それは、自然の主人は、私であるという、傲慢である。

自然は、その人間の、傲慢を受け入れて、何も言わない。


だが、反面、自然は、時に、狂暴に荒れ狂う。

台風、地震、その他の、自然災害である。

その前には、人間は、全くの無力である。


ただ、それが、過ぎ去るのを待つのみ。

だから、日本の精神には、自然崇敬、崇拝の心得が芽生えた。

更に、その心得を所作にして伝えた。

伝統である。


果たして、西洋には、そんな心得があるのか・・・

皆無である。


そして、彼らの神に祈っても、自然災害は、やって来る。


疫病、ペストの嵐が吹き荒れた時、教会は、無力だった。

そして、多くの人が死に、そこで、彼らは、目覚めた。

ルネサンスである。


教会ではなく、それ以前の、人間の姿に、戻るという、心である。


呆れる程、愚かな、民族、人種である。

その愚かな、人種、民族が、色付き人間を差別して、500年間以上に渡り、植民地として支配した。

その支配は、野蛮極まりないものである。


略奪、強奪、そして、虐殺である。

その人口が、壊滅した民族もいる。

それでない場合は、人口が半減、いや、三分の一・・・


一体、そんな民族の西洋という地域の、文化と言う言葉が、通念として世界に通用するという・・・

そして、それは、傲慢な、キリスト教と共に、彼らが、世界に広めた。


ところが・・・

その、批判なしに、文化という言葉に関して、云々するという、哲学者、思想家である。


言葉を奪われれば、それは、すべてが奪われることになる。

もし、あの戦争で、日本語が奪われれば、日本は、壊滅しただろう。


自然と、文化の、境界線に、言葉があるというが、それは、西洋に言えることだ。


日本の言葉、大和言葉には、そんな観念は無い。

それは、言葉が、自然だったからだ。

そして、言葉は、また、神と呼ぶものの、一つだった。


ヨハネの福音書には、はじめに言葉があり、言葉は神であるというが、その、ロゴスというものと、日本の大和言葉は、違う。


その、位相が違うのである。

言霊とは、そのものが、自然と同じものとしての、意識である。


草木が、神であるように、言の葉も、神であり、それは、自然と一体である。だから、多くを語らず、言挙げすることなく、所作に託した。


筒井氏の、論説とは、大きくかけ離れたが、私の言いたいことを、こうして、書いておく。


また、筒井氏の、論説を続ける。