生きるに意味などない184

勿論、どんな言語でも、それが人間言語であるかぎりにおいては、他のすべての言語と共通する多くの基本的属性をもっている。また、意味生産的想像力のあり方の違いにしても、それが特にはっきり出てくるのはミクロ的見方をした場合のことであって、マクロ的視野においては、それほど甚だしい相違を示さないことも少なくない。近代ヨーロッパ諸語のように同族の言語は勿論のこと、語族を異にする言語においても、マクロ的には、意味分節が重複し、少なくとも部分的に一致し合うことが多い。そんな場合に、いわゆる文化的普遍者が成立するのである。しかも、西洋文化を人類文化の普遍的パラダイムとして、全世界が地球社会的統合を向かって進みつつある今日、文化的普遍者の数は、当然、急速に増大しつつある。

筒井


そのようであるが、この論文は、文化と言語アラヤ識、というテーマである。いずれ、東洋思想について、語る。


多言語の翻訳は、可能か・・・

不可能である。


日本語の花と、欧米の花、イスラム社会の花、は、違う。

何せ、その土壌、自然が違う。


何とか、東洋思想にて、話しをまとめる様子だが、私は、それは、大きなお世話になると思っている。

これは、研究家の、遊びである。

そして、それを、学問とも、呼ぶ。


確かに、花の場合は、欧米の諸国なら、少しは、日本の花と、似ている。だが、似ているだけで、矢張り、違う。

その、伝統が違う。


だから、日本を理解する場合は、日本語を学ぶべきなのだ。

アメリカ、イギリスを知るためには、英語である。

更に、スペイン語、アラブ語等々。


その国の、地域の、文化を知るためには、言葉を覚える事が何よりである。


諸言語の関りを、幾ら、議論しても、その溝は、埋まらない。

そして、意味付けも、無駄である。


だが、それでもなお、異文化間の対話の問題は一向に解決されそうにない。

筒井


実存の深みでは、話し合えば会うほど、異文化の亀裂がはげしくなり、対立はますます尖鋭化して、ついには文化の危機にまで導きかねない、というのが実状なのである。

筒井


それなのに、何故、語る。


言語アラヤ識、とは、諸言語の深層心理という意味なのか、それを、東洋の思想を語ることで、何とか、深層心理に届く、意味意識を求める様子である。


こんなことに、意味があるのか・・・

と言えば、意味があるのである。


つまり、生きているということは、考えることなのである。

そして、その考えることで、意味意識、意味付けが出来ると、信じている。


だから、暇つぶしには、とてもいい。


「神は、光と闇の七万の帳のかげに隠れている」と、イスラームの預言者が言ったと言う。繰り返し繰り返し、様々に解釈されながら、イスラーム思想の歴史的発展に甚大な影響を与えてきた有名な言葉だ。

筒井


呆れる。

預言者の言葉とは、たわいもないものである。

口からの、出まかせである。


それを、一生懸命に、考えて、解釈する様は、悲劇である。


この聖言の用語は、典型的にスーフィズムのそれであり、内容的には、明らかに、グノーシス的・照明学的である。

筒井


こうなると、それの説明を、無心に読むことになる。


その解釈は、以下である。


絶対不分節、未分節の境位における、存在の本源的真相は、コトバの意味分節機能の働きによって産み出された事物・事象の、幾重にも重なるベールに覆い隠されて、不可視、不可知である、と。

筒井


不可視、不可知・・・

見ることも、知ることも、出来ないもの。

つまり、神、である。


つまり、神は、その正体を、現さないというのだ。


それなら、そのように言えば、いいものを、七万の帳、などという。

それは、嘘である。


そして、意味は無い。

無意味な言葉である。


さて、どんな宗教の言葉も、皆々、然りである。

訳の分からない言葉の数々を、弄んでは、それを、解釈するという、日々に明け暮れている。


仏陀の言葉が、その後に、どのように、解釈されたか・・・

拡大解釈ではない。

皆々、幻想と、妄想に陥り、とんでもない、化け物と化した。


イエスキリストの言葉も、最初は、単なる、その地方の言葉だった。そして、内容は、それほどに、感動するものではない。

ユダヤ教徒として、正さなければならないことを、言う。


しかし、福音書という文学的行為が、とんでもない、宗教を作り上げることになった。

遂に、イエスは、神の子、である。


人は、神の子だが、イエスが、神の直系の子となった。


そうして、妄想を広げて生きて来たのが、人間の社会である。

あたかも、生きるに意味があるかのように、である。


生まれたから、生きるのではない。

人は、神の霊に、一度、洗われて、生まれ変わるのである。

という、大嘘に、騙された人々を、キリスト教徒と、呼ぶ。


勿論、仏教徒も、同じく。

大嘘にまみれた、教えに、騙された人々のことを、言う。