生きるに意味などない185

イスラーム本来の宗教的コンテクストでは、「現象以前」は、この場合、言うまでもなく神である。現象的世界は、もともと、神の創造によって生起したものだが、創造主そのものの姿は、現象的事物・事象のかげに隠れて、人間の目には見えない。それを、宗教的に、神の絶対不可知性という。

筒井


ここでは、その神の議論は、しない。

絶対不可知性、など、説明するのも、馬鹿らしい。


だが、東洋思想には、至る所に、その考え方がある、という。


この世の、創造主がいようが、いまいが、人間の、生きる事というのは、何も変わらない。

つまり、神という存在が、在る、無に、関わらず、人間は、悪い冗談のような人生を生きなければならない。


そこに、神が、介入することはない。

神とは、実に、おめでたいものである。


何もしない神に、祈りを捧げるという、変なことをして、生きる人間の様を、何と言うのか、解らない。


日本の先祖に続く先に存在する、祖先の大元を、神というなら、少し、理解出来る。


つまり、一度は、この世に生きていた人であるから。


現象だけが見えて、「現象以前」は見えない。こういう考え方は、東洋思想の至る所に、いろいろな形で現れている。

筒井


と、いうことで、これから、お得意の、解説が始まる。


普通の人間は、「現象以前」を見ることができない、らしい。

それならば、何も説明する必要はないのだが・・・


見える人がいるらしい・・・

霊能者のようにか・・・


創造と創造以前、現象と未現象、展開と未展開、分節と未分節、有と無、その他、東洋思想において理論化される形は具体的には様々だが、いずれも同じ問題を、同じ型の思考で考えようとする。ここに、古典的東洋思想一般に共通する最も基本的なテーマを、私は見る。しかも、この問題を、東洋哲学の多くの伝統が、一種の言語批判という形で展開してきたことを、私は非常に興味深い事実として受け止める。

筒井


知らずば、何の事か、解らなかったのに・・・


知らないことは、無い事である。

だから、知る必要がない人は、これ以上、読まないことだ。


東洋とは、日本は勿論のこと、中国大陸から、インド、中東と、広いのである。


例えば、アジアも、東、東南、中央、南と、広い。


そこから出た、哲学、思想、そして、宗教である。

中でも、インドと中東、アラブの宗教は、仏教とイスラム教である。


全く、異質な宗教だが・・・

その思想には、何らかの、共通点がある。

それは、思索の仕方である。


無いものを、在ると、考える思想・・・

つまり、妄想の考え方である。


それらは、すべて、生きるに意味あるものと、捉えて、延々と語り継ぐもののようだ。


呆れる程に、それらは、言葉を尽くす。

言葉にならないと言っても、言葉にする。


しかし、言語批判から云々とは、一体、何事か。


言語批判をしても、言語で語るという、矛盾である。

いや、その矛盾も、お構いなしである。


議論をしても、負けると思うと、私には、論が無いから、私を攻撃することは、出来ないと言う人まで、現われる。


そして、それも、言葉である。


私は、このエッセイの最初に、言葉は、イメージだと書いた。

言語は、イメージであり、明確な、定義などは、実は、無い。

それなのに・・・ああそれなのに・・・


語り尽くすと、解ったという、思い上がりになる、人間の、浅はかさである。


我々が常識的な存在了解の地平で見ている世界、経験的「現実」は一つの普遍的な存在論的構造をもっている。他者にたいして、きっぱりと自らを主張する無数の事物、様々な性質、それら相互間に成立する関係的事態、出来事。我々は、決して、存在の本源的な無分節的連続性、無定形性、そのものを見てはいない。「世界」は、始めから、一定の形で分節された存在秩序として、我々の前に現れているのだ。

筒井


嘘である。

言葉を発明する以前は、そんなものではなかった。

言葉を発明、あるいは、発見した故に、そのように、なった。


そして、本能を壊して、大脳化を果たした、人間だから、そのように、なった。

実に、歪である。


存在の本源的な無分節的連続性、無定形性、そのものを見てはいない


というが・・・

そんなものを、見る必要はない。

それは、単なる、妄想家が、考えたものである。


勿論、そのように、見る人もいるだろうが・・・

それは、生きるに、余計なことである。


だが、それを見て、悟りをひらく・・・

真理を知る・・・


一体、真理とか、本源的とか、何か、確実普遍なことが、あろうか。


まあ、渾沌とか、乱れとか、何とか、それなりに、言葉の手品を使えば、言う事は、言える。

言葉の手品師・・・哲学、思想、宗教である。