くたばるぞ北海道25

私はアイヌを「民族」としては考えていない。理由はさまざまだが、何よりアイヌ自身による定義の確立がなされていないのに、利権のため、明確な議論もなく、「民族」という言葉を都合の良いようにしか利用していない点に、強い憤りを感じている。アイヌの代表のような顔をしているアイヌ協会ですら、「アイヌとは何か?」という問いに、はっきり答えることができないのである。

砂澤 陣


アイヌは、民族などいう、高等な存在ではない。

単なる、集団である。

部族である。


アイヌの文化、言葉、踊り、祭事の違いや、自立的集団形成をなしていない歴史を考えると、アイヌは三体系七分派に分かれる。その意味で、ひとくくりに「民族」とするのではなく、「部族」として解釈するのが整理しやすい。アイヌ語自体もアイヌと同じで統一されたものではない。東北弁や津軽弁と同じようにアイヌ弁と解釈している。

砂澤


だから、先住民族などとは、アイヌ、アイヌ御用学者たちの、幻想、妄想なのである。


更に、蝦夷地、北海道は、アイヌが支配していた土地ではない。

和人も、他の民族、そして、アイヌの部族と多々、混在していた。


北海道の地名も、アイヌ語を元に、付けられたという、嘘がある。


北海道の地名は、幕末から明治にかけての探検家で、蝦夷御用御雇に抜擢されて、蝦夷地を調査した、松浦武四郎が、明治政府の開拓判官に任じられ、アイヌの言葉を地名に使うよう提言されたことによる。


だから、アイヌが所有していたという、証拠にはならない。


ところで・・・

アイヌに、そんな才能はないのである。

つまり、王朝を造り、部族を統一させるという、才能である。


兎に角、部族間の、抗争が多くあり、皆、それぞれ反目していた。


それほどの頭脳があれば、現在のように、日本政府に、ただ援助されて、のうのうと、生活するという、汚い根性を持つことがなかった。


更に、私が見たところ、アイヌ文化などというものは、あまりないことに気づく。


それらは、後に作られたものである。

バリ島という、インドネシアの観光化された島がある。


日本人にも、人気であるが、嫌いな人は、二度と行かない。

そのバリ島の文化というものは、今も、延々と作られ続けている。


ところが・・・

馬鹿な日本人は、それを、バリ島の伝統文化と、勘違いする。

神々の島、バリ島という、宣伝文句があるが、嘘である。


あの島は、単なる、精霊の島である。

神々の島は、日本である。


バリ島の絵画なども、西洋の絵画に影響を受けて、成り立つものだ。


観光客に、迎合して出来上がった、バリ島の文化的行為。

それと同じように、アイヌの文化と言われるものも、創られ続けている。


だから、その原型を探すと、ただ、ボロだけが出る。

本当は、文化的なものなど、無いに等しい。


さて、プロ・アイヌという人たちがいる。

プロだから、それで、稼いでいる人たちである。

そして、本物のようなアイヌを演じている。


そのアラが見えるが、お構いなしである。


プロ・アイヌが犯した罪の中でも最も質が悪いのは、アイヌ文化と伝統行事を、金のかかるものにしてしまったことである。

砂澤


その通り。

昔、アイヌの祭り、熊祭り、イヨマンテと呼ばれる、質素なものを見た。


持ち合わせのもので、質素に行う。

ただし、私の霊学からは、何の、霊的作法もなかったが・・・


供養でも、慰霊でも、神祭りでもない。

単なる、暇つぶしである。

それでも、代表の者は、精一杯にやっていた。


物故者を慰霊するイチャルパや神に感謝するカムイノミなどの祭事も、かつては近所同士で道具を持ち寄り、自分たちの生活の範囲内で慎ましくおこなわれていたはずだ。

砂澤


アイヌの言葉や刺繍、踊りなどの継承も、かつては親から子へ、先輩から後輩へと自然に引き継がれていたはずである。しかし協会のプロ・アイヌが絡むと、補助金対象の「アイヌ語教室」や「刺繍教室」となり、肝心なことは教えずに気に入らなければ受講者を締め出すことさえする。

砂澤


この、プロ・アイヌたちは、更に、とんでもない捏造を繰り返し、更には、反日左翼たちとも、手を組み、国を売るという行為まで発展する。


芸術の価値は普遍的であるはずなのに、プロ・アイヌが関与する伝統工芸品のコンテストは、身内が企画し身内が審査委員を務める「出来レース」で、入賞した作品を税金で買い取らせるようなシステムまでつくっている。

砂澤


こうして、アイヌ、そのプロ・アイヌたちの行動は、いよいよ、日本人を怒らせるだろう。


現在、在日韓国、朝鮮人に対する、日本人の怒りが、目に見えるように、次第に、アイヌ、プロ・アイヌたちにも、向けられる。


日本は、日本人の国である。

それを、明確にする時期が来る。


次代の若者の目は、誤魔化せない。

何せ、左翼的老人は、今に死ぬ。

反日左翼たちも、死ぬ。


後に残るのは、現在の若者たちであり、その彼らは、目覚めることになっている。

それが、新しい時代である。

時代性と、時代精神が変容する。