くたばるぞ北海道27

縄文時代からの、先住民族アイヌという、全くの大嘘を言う、アイヌたちである。


本州の時代区分と、北海道の時代区分は、多少のズレがある。


本州に稲作が発達した、縄文後期、弥生時代に遅れて、気候の制約で、稲作が不可能な北海道は、続縄文時代と呼ばれる。


続縄文時代から、擦文時代にかけて、道北の沿岸地域、オホーツク海沿岸には、オホーツク文化が栄えた。


13世紀、本州では、鎌倉時代になり、北海道ではアイヌ文化期に入るが、擦文の古墳文化など、和人文化の影響が途絶えていたわけではない。


アイヌは、古い人骨DNAの分析で、シベリアー樺太ーオホーツク方面の人たちと、深いつながりがあることが解っている。

だから、先住民族・・・という、思い込み。


アイヌは、馬鹿だから、何も解らないが、兎に角、朝鮮人のように、嘘をつくことが、当たり前であるから・・・


縄文時代から、日本の先住民族であると、大いに宣伝した。

勿論、彼らは、縄文時代など、知らない。

知る訳がない。

文字が無く、どうして記録もないのに、そんな戯けたことが言えるのか・・・


中世から近世、そして、近代に大量の和人男子が、北海道に押し寄せて、アイヌ女性との間に、多くの子孫を残したという事実。


ここから、的場光昭氏の、著作を引用する。


民族文化の最も重要なものは宗教性と言語、そして住居です。

まず住居をみると、擦文文化人やオホーツク文化人は地面を深く掘り下げた竪穴式住居に竈ですが、アイヌ文化では掘っ建立柱建物といって柱を立てて笹や茅で屋根や壁を作り囲炉裏を囲む生活です。

的場


以下、私がまとめると、


考古学で重要視されるのは、お墓の作り方である。


お墓の作り方が、全く継承されていないということは、集団文化の断絶を意味する。


つまり、アイヌの葬礼、墓制は、オホーツク文化人や、擦文文化人のものとは、似ても、似つかないものである。


これは、アイヌの人々が後から来て、徹底的に、その社会制度や宗教性を否定し、自分たちの文化を押し付けたということ。

ただし、アイヌの文化といっても、知れたものである。


現在のアイヌが来る前に、すでに、北海道は、様々な文化が起こっていたのである。


およそ、1050年頃に来ただけである。

それが、縄文時代か・・・


アイヌの文化は、未熟極まるが、実は、縄文時代の文化の方が、アイヌ文化より優れていたという、オチが付く。


まず、現在、アイヌでござと言う者は、味噌汁で顔を洗い、小学生からの勉強をして、やり直すことだ。


その、味噌さえも、作ることが出来なかった、アイヌ。

私が言えば、アイヌ料理などというものは、皆無であり、いかに、アホ、馬鹿だったか、である。


食っていたものは、ただ、焼いたもの、乾かしていたもの等々。

知恵のある料理などは、一切ない。


やっていたことは、部族間の争いだけ。


さて、ちなみに、日本の歴史に現れる、北海道を見る。


斉明天皇四年 658年

阿倍比羅夫が北海道に遠征して、翌年、行政府を現在の後志に置いた。


延暦21年 802年

北海道の蝦夷が、京都まで来て、ヒグマの毛皮を上納する。

蝦夷、とは、摩擦文化人である。


天長三年 826年

伊達市の善光寺の開基は、慈覚大師が自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置したことによると、伝えられ、慶長18年、1613年、再興されたもの。


保延元年 1135年

函館の船魂神社は、平安期の開基。


文治五年 1189年

源頼朝に追われた、奥州藤原氏泰衡の部下が、北海道に遁れ、安東氏が管領となる。


元久二年 1205年

甲斐の領主、荒木大学が千人ほどを引き連れて、砂金掘りを始めたという記録がある。


文応元年 12650年

知内町の雷公神社は、天養元年、1144年の建立とされている。


永仁四年 1296年

日蓮上人の高弟日持上人が、函館、松前、樺太にて、布教した。


つまり、アイヌ以前に、多くの和人との関わりがあったことである。


勿論、アイヌ文化以前の、和人の痕跡は、文字のみではない。

様々な、遺跡からも、多数見られる。

一々面倒なので、書かない。


何を言いたいかといえば、アイヌどもは、大嘘の歴史を作り上げているということだ。

いやいや、アイヌに加担する、あるいは、金になる御用学者、反日研究家たちが、捏造しているということだ。


それは、朝鮮によく似ている。


だが、真実を知ると、簡単に崩壊する。

今が、その時である。


アイヌは、簡単に崩壊するのである。

次に続ける。