生きるに意味などない186

すべてのものが、それぞれの「名」をもち、その「名」の喚起する「本質」を通じて、自らを他の一切から区別しつつ、整然たる相互関連の網目を構成する。そして我々は、己の母国語の意味論的システムを習得することによって、ごく自然に、いわば一種のナイーブな存在解釈学を身に付けている。この解釈学によれば、およそ「名」なるものは、それが名詞であれ、形容詞であれ、動詞であれ、それぞれ、客観的「現実」の、一断片、一断面、に対応し、それを指示する、というわけである。

筒井


その通りだ。

何も、依存は無い。


名、というものによって、他の一切から、区別するというが、だから、言葉が成り立つのである。

そして、自然に、存在解釈をする。


ところが・・・

驚くなかれ・・・

人それぞれ、その言葉の観念が違うのである。


同じ言葉を使っても、意味が違う。

すると、全く、意味不明の議論となる。


そういう人たちを見ていると、呆れるし、死んだ方がいいと思う。


更に、客観的「現実」というものが、有るのか無いのかを、問わない。

果たして、人間は、客観的になれるものだろうか。

成れないのである。


主観である。

主観以外に、無い。


もし、客観というものがあれば、それは、化け物である。


誰も、客観視など出来ない。

それは、あくまでも、主観である。


現実を、主観的に見ているのみ。


それを、誤魔化して、客観視するという、輩がいる。


客観的に見て、物を言え・・・と言うが・・・

そんなことは、人間には、出来ない。

もし、出来るというならば、それも、主観である。


だから、人間は、悟ることが出来ないのである。

悟りとは、化け物になるという事だ。


一応、客観的に、現実の一断片を見るとする。

そこで、漸く、落ち着くのである。

勿論、それは、単なる迷いである。


だから、信仰というものが、迷いであると、私は何度も言っている。

それほど、迷いが必要なほどに、人生は、生き難いのである。


迷いの肯定が、信仰というものである。

それは、宗教に限らない。

主義、主張も、同じ事である。


いつでも、どこでも見られるこの常識的な存在解釈に、東洋哲学はーーーといっても、勿論、孔子の正名論や、インドのヴァイシェーシカ派の概念実在論のような重要な例外もないわけではないーーー鋭く、激しく対立する。例えば、荘子。彼によれば、存在リアリティの窮極的、本源的な様態は「渾沌」、すなわち、物と物とを分かつ境界線がどこにも引かれていない全く無分節である。物と物とを互いに区別し対立させる存在境界線は、すべて人間意識の所産にすぎない。そしてこの事物識別的迷妄の源にはコトバの意味分節的働きがある。

筒井


何と、難しいことを、言うのか・・・


まず、この世は、渾沌である。

そして、無分節である。


人間意識の所産にすぎない・・・

そして、コトバの意味分節的働きがある。


意味が解らない。


人間意識の迷妄の所産に過ぎないものが、事物識別的迷妄の源に、コトバの意味分節的、働きがある。

何の事だ・・・


迷妄の下に、コトバの意味分節的、働きとは、何かである。

ここで、言葉を、コトバと、片仮名書きにしているのが、味噌。

いや、糞かもしれない。


人間のコトバには、唯一絶対の意味など無いと、荘子は、言う。

その通りだ。


大半が、意味がない言葉である。

ただ、取りあえず、意味を付けたという、程度である。

そうでなければ、混乱するからだ。


凡そで、いいのである。

動物は、言葉を作らないが、意思疎通は、している。


コトバは無数の総体的な意味区別の単位に分割されている。

筒井


老荘思想の、道の思想から、語っているが・・・


「道」そのもの、本然の姿における「道」、は「渾沌」であり、「一」であり、「無」であって、いかなる分割線もそこには引かれていない。「道」は絶対無分割、無分節。だが、人間の意識が、コトバの分割性に唆されて、それを様々に分割してしまう。

筒井


道は、一であり、無である、と言う。

そして、渾沌である。


だが、人間の意識が、コトバの分割性に、そそのかされて・・・

様々に、分割、分節するという。


言った者、勝ちである。

そして、それを、解釈するのも、最初の人が勝つ。


だから、やらないより、やった方が良い。

おどるアホオに、見るアホウ、どうせ、アホウなら、踊らにゃ、損、そんである。

その程度のことである。