生きるに意味などない187

もともと渾然としてどこにも裂け目のなかった「道」の、至る所に裂け目が出来る。一つ一つの裂け目は「名」によって本質的に固定される。絶対的「一」であった「道」の本源的な真相は、そこに生起する現象的「多」の背後に隠れてしまう。現象的「多」の世界は、重々無尽に連なる無数の「名」の網目構造である。

筒井


老荘思想である。

裂け目が、名によって、本質的に、固定される。

つまり、名付けることによって、固定されるというのだ。


私に、名前がついて、私という、人格が生まれた。

ところが、名によって、「道」の本源的な真相が、「多」の背後に隠れ、重々無尽に連なる、無数の「名」の網目構造になる。


それで、どうした・・・

それが、罪だというのだから、手も付けられない。


世の中は、名の無数の網目構造である。

そのように、定義すると、よろしい。


荘子は、「名」の意味分節機能の功罪を、そしてとくにその「本質」生産性にまつわる存在論的危険性を突鋭に意識する思想家だった。

筒井


これは、説明がいる。

私には、良く解らない。


次に進むと・・・


コトバは吹く風の音のようなものではない。コトバには意味がある。(しかし、意味といっても)、それが、まだぴたりと定まらずに浮動しているような場合には、たとえものを言ったとしても、何も言わなかったのと同じことになってしまうだろう。(だから、真にコトバの名に値するものは、一定した意味をもっていなければならない)、というのである。だがしかし、意味の一定したコトバは、必ずものを、本質的に固定した形で分節し出し、そうすることによって、「道」の真相を傷つける。そこに問題があるのだ。

筒井


と、荘子の問題意識である。

荘子の問題である。

私の問題ではない。


だから・・・

すっ飛ばしていいのである。


知る者は、言わず、知らぬ者が言う・・・

と、なるわけだ。


呆れるほどに、変態である。

勿論、私も、人から、書き物が、変態と言われることがあるが・・・


一定の意味が必要だ、しかし、一定の意味があれば、それは、「道」というものの、真相を傷つけるとは・・・


「道」という観念を置いた方が、悪いとは、ならない。

それを説明するのが、研究家とか、学者で、彼らは、それで、食べている。


私は、それで、食べていない。

その違いは、大きい。


つまり、そんな問題意識は、無視出来るのである。


勝手にやらせておくに、限る。


大矛盾である。

意味を持たせるというが、意味を持つと、大切な「道」の真相を傷つけるというのである。


こうして、生きる意味意識を、求めるのである。


生きるとは、「道」に生きるのであると、言うのが、老荘思想である。

そして、そこから、日本の禅が生まれた。


つまり、インドから、ヨガがやってきて、坐るという行為に、意義を見出し、その解釈を、老荘思想の言葉から、説明した。

つまり、禅を学びたければ、老荘思想を学ぶべきである、となる。


だから、渾沌とか、一とか、無とか、そして「道」とかの、言葉が入る。



道は、無い、しかし、私の行く道の上に、道が出来る・・・

というような、名言らしきものが、出来る。


簡単に言えば、「道」とは、要するに、世界は、一つであるという、思想である。

私も、あなたも、同じ一つ。

私は、あなたである。


目の前にある物は、私である。

それが、悟りという。


だから、私は無いが、私以外のものが、すべて、私である。

さあ・・・

これが、解れば、正解である。


私とは、妄想である。

そして、私とは、私以外の、すべてのものである。


目の前に広がるものが、私なのである。


ただし、私個人では、悟りとは、そして、救いとは、死ぬことである。

つまり、すべての人は、悟り、救われるのである。

死ぬから。


いずれ、かならず、死ぬ。

これが、人間の救いである。


その前には、老荘思想も、東洋哲学も、吹っ飛ぶ。


だが、死ぬまでに、なにやら、やらなけれればならないと、思うから、死ぬまでの、暇を潰すために、哲学やら、思想に触れる、と言う程度にしておくことだ。


そんなものに、嵌ると、堕落する。


有史以来、哲学、思想は、延々と出たが、何一つ、人間を救うものはなかった。

ただ、だらだらと、延々と、喋るだけである。


生きるに意味がないのだから、ホント、詮無い事。

次に、続ける。