生きるに意味などない188

万物斉一(「道」は本来、絶対無差別、無分節であって、すべてのものは互いにに斉しく、窮極的には一である)という荘子哲学の根本原理に結びつけて、「荘子」雑篇の一節は、コトバについてこう結論する。「言わざれば即ち斉し。斉しきと言とは斉しからず。言と斉しきとは斉しからざるなり。故に曰く「言無し」と)。

筒井


斉しく、とは、ひとしく、と読む。

言と、等しくは、等しくないと、言う。

故に、言、無し、である。


無言のままならば、万物は無差別であり、「道」の根源的斉一性は、保たれる。


と、まあ、言、無し、なのに、言葉にしている。

これ、どういうことか。


つまり、イカレている。

味噌汁で、顔を洗え、である。


言わざれば、即ち、等しい、のである。

言わなければ、いいのである。

だが、哲学者は、言う、という、呆れた、行状である。


ところが、更に言う。


コトバで、「斉しい」と言ったとたんに、斉しいものが、斉しくないものになってしまう。


絶対的無差別が、相対的差別になるという。


まともな頭の人なら、こんなことを言わないだろう。

言うなと言って、言うのであるから・・・


救われないのである。

こうして、救われない者が、多数、現われた。

それが、哲学、思想の世界である。


そして、それこそ、意味を見出すというから、笑う。


万物は、元来、互いに存在論的に斉しい。ということは、万物相互の間に、本来は何の区分けもない、ということ。それなのに我々の現実的体験としては、万物が互いに、はっきり区分けされている。コトバの幻力、つまり意味形象喚起能力が、虚構の「本質」を作り出すからだ、と荘子は考える。

筒井


言葉の幻の力が、虚構の本質を、作り出す、と言う。

言葉は、イメージであると、最初の頃に、何度も書いた。


イメージは、虚構である。

それで、いい。


ところが、コトバの支配を超えて、無「本質」的空間に入れば、万物の、一なることが、体験されると、言う、荘子である。


その世界は、無、の世界でもある。

一の世界である。


ちなみに、それを、老子は、無名、と言う。

それで、老荘思想の出来上がりだ。


「道は隠れて名無し」と老子はいう。「無名」の境位における「道」を、彼はアラキに譬える。

アラキ、木に僕という文字だ。


アラキは、これを色々に裁断して、始めて様々な器物になる。それらの器物は、それぞれが特殊な「名」をもつ。根源的一者が散じて、現象的多者になるのだ。「無名」の根源から「有名」の現象世界へ。まさに、言語的意味分節理論の原型である。

筒井


まあ、私などの、素人の出る幕ではないが・・・

思想、信条、宗教の自由があると、信じているから、勝手に書くが・・・


これで、人が、生きられるのだろうかと、心配になる。


思想家たちは、言葉を使い尽くして、言葉を、否定する。

そして、結果は、無、空、一、道、などと、言う。

いや、宣うのである。


だが、まだまだ、面白い世界が出で来る。


狂いも、ここまでになれば、狂いとは、言い難くなる。


話は、飛ぶが・・・

狂った者が、勝つ。

正気の者が、百人いても、一人の、狂人には、敵わない。


だが、世の中には、統計というものがあり、例えば、心理学などは、多数を、正気と考えて、少数を、狂い、あるいは、別物と考える。

少数は、弱者になる。

そして、差別の対象にもなる。


それを、今時期は、差別するなと、言う人たちが、出ている。


例えば、同性愛者たちは、差別されて、弱者である。

しかし、立ち上がった。


差別するな、と。

さて、どうする。

差別するなという者たちが、勝ちを収める、世の中になりつつある。


その時、荘子の言葉についてを、論じても、詮無い。


実は、同性愛者も、異性愛者も、同じ者であるということになるのだが・・・


老荘によれば・・・


コトバで、括るな、ということになる。

みんな、同じである。

根元的には、皆々、同じである。


そして、渾沌としている。

その、渾沌こそが、人生である。


生きるとは、渾沌を生きるのである。

そこで、その渾沌を説明するために、哲学、思想家たちは、狂い、考える。実に、世の中は、面白い。


そんな、くだらない事に、命を賭ける。

人生って、なんて、とんでもないものなのか、と、私は考える。