生きるに意味などない189

類例は東洋哲学の至るところに見いだされる。例えばイブン・アラビー、十三世紀のイスラーム哲学者。彼の思想においては、「天地創造以前」の究極的存在リアリティは、ghayb 「玄虚」である。この言葉は、アラビア語では、底知れぬ深い闇のなかに、一物も残さずにすべてが穏没しきった状態を意味する。この形而上的境位を表すために、イブン・アラビーは「無」とも言う。「無」とは「無一物」の意。ただの一物も顕現していないということ。

筒井


次第に、解って来るが・・・

この、解ったという意識が、大きな間違い起こす。


私のような、馬鹿者は、何度も、繰り返し読む必要がある。

無駄なこと、と、思えるが、これも、死ぬまでの、暇つぶしである。


結局、東洋哲学では、「無」「虚無」が、大流行りしている。

「玄虚」とは、また、実に、素晴らしい程の言葉である。


玄虚とは、兎に角、無なのである。無の、窮極の相である。

と、これも、言葉遊びに近いが・・・


「神」アッラーすらまだ現れていない。「神以前」の極限的状態である。そこから、「玄虚」の段階的自己限定によって、「神」をはじめとする森羅万象が顕現してくる。

筒井


さてさて、神以前の、というとは・・・

つまり、神も、結果は、作り上げられたものと、考えるが・・・


神よりも、凄い、思索と、思考である。

神を超えている・・・


神の存在も、人間の頭の中にある。

存在するとは、幻想でも、妄想でもいいのである。


人間の頭の中にさえあれば、すべての物は、存在する。


要するに絶対無分節者の自己分節の過程が、すなわち現象的世界の生起なのである。ここで注意すべきことは、イブン・アラビーによれば、いま言った絶対無分節者の自己分節、自己限定が、必ず無数の「神名」をチャンネルとして、それを通して行われるということ、すなわち、一者の多者化が「名」の働きによってなされる、ということである。

筒井


ようやく、解って来たのに、また、難題である。


無数の神名をチャンネルにして・・・


ムハンマド以前時代に、多神教だったが、それを、アッラー一つにしたのである。

一者の、多者化という、理屈。


それが、名の働きによってなされる、とは・・・

困ったね・・・


とすれば「玄虚」そのものは「無名」であり、現象的世界は存在の「有名」の次元、ということになろう。詳論は避けるが、ここでもまた、コトバの分節機能に、重大な存在論的意義が与えられいることを、我々は見る。

筒井


コトバの分節機能に・・・

余程、言葉を恐れている。


いや、言葉のイメージを恐れる。

あるいは、言葉のイメージ化を恐れる。


それほど、言葉というものは、迷いなのであるという、言い分である。

思想家ほど、言葉を怖れる。

当然である。


何故か・・・

後に、その言葉に、定義を与える人たちが、言葉の定義や、意味を、ひっくり返すからだ。


これと全く同じ考えが、インド哲学伝統の中心部にも認められる。例えば、「チャーンドギア・ウパニシャド」は、中国哲学の「道」に該当する「ブラフマン」を、様々な土製品の素材としての粘土に譬え、「我が子よ、土器にはいろいろあるけれども、それらの真相は、ただ一塊りの土によって一挙に知ることができる。様々に変わってはいるが、その違いは、結局は、コトバの上での違い、名の違い、にすぎない。要するに、いずれも土であるにすぎないのだ」と説いている。明らかに、「老子」の無名のアキラ有名の比喩と同じく、絶対無分節者の言語意味的分節の思想である。

筒井


そう、皆、同じ考え方なのである。

言語意味的、分節の思想・・・


それは、つまり、言語に対する、根強い、不信感である。

言葉を使うな・・・と言いつつ、言葉で説明しなければならない、矛盾を感じつつ、彼らは、死ぬまでの、暇を潰すために、考えた。


そして、それが、生きる意味につながることを・・・

全く、意味なしと、私は言う。


口無しになって、生きれば良かったのに、何故、口を持って、語ったのか。

呆れる程に、愚かである。


死ぬまで、無言でいれば、聖人にならた・・・か・・・


ということで、まだまだ続く、このお話しである。


生きるために、考え尽くしたのか・・・

それにしても、その語るコトバというものを、忌み嫌う姿勢は、どこからか・・・


つまり、一番、信用出来ないものを、使用して、信用出来ない、人生を語ったのである。


つまり、言葉と、人生は、同じ程度のものとの、認識である。


生きる、考える、そして、説き尽くす・・・

という、ご苦労なことを、何故、やったのか・・・

暇だった。それが、答えである。


次の、大乗仏教などは、ただ、論破するための、議論である。

議論のための、議論を続けた。

そして、それが、今も、語られるという、狂い、いや、神経症である。


人間は、大脳化から、どうしても、考えるという、無駄な抵抗をして、生き続けて来た。

そして、これからも、生き続ける。

無駄な抵抗をして・・・