前回まで、いかに、キリスト教白人が野蛮な民族であるかを、書いた。
御覧の通りである。
ただし、一つだけ、救いは、辛うじてキリスト教という宗教によって、少しは、その野蛮な行為が、抑制されもするという、ことである。
これで、キリスト教というものの、本質を見た。
日本にも、キリスト教徒がいる。
だが、彼らは、ただ、騙されているだけである。
気の毒である。
知らないという、ことだ。
キリスト教の本質を知れば、仰天するだろう。
さて、次は、仏教である。
再度、いや、何度も書く必要がある。
現在、本当の仏教知るというような、謳い文句で、仏教を講義して、広めている人がいるが・・・
その一端を、覗いてみると、驚くべき、蒙昧である。
勿論、日本の仏教の、すべての宗派にも言えるが、彼らは、仏教の何たるかを知らないようである。
大乗仏教は、仏教ではない。
あれは、大乗教である。
更に、そ以前の、上座部仏教が、仏教かというと、それも違う。
両者共に、唯の、幻想、妄想の宗教である。
その教義は、人間が作ったものであり、仏とかいう、化け物を掲げて、意気揚々としている様子だが、何も知らない。
教学などという、言葉を用いること自体が、呆れるのである。
ただの、いかれた、屁理屈である。
以前も書いたが、仏教徒とは、仏陀の教えを、最初から、裏切り、破ったもの達の、集いである。
手の付けられない、妄想に身を任せて、何やら、それらしく、僧侶という生業をしているが、それ自体が、仏陀に対する、裏切りである。
よくも、のうのうとして、生きていられるものであると、私は言う。
彼らが死んで、行く世界は、単なる、仏教冥界、あるいは、仏教幽界である。決して、極楽などいう、場所には、行かない。
何せ、あちらの世界に、極楽などという、世界は、無い。
そこで、私は、致し方なく、仏陀の仏教を、書くことにする。
本当の仏教というものを語る者が、親鸞は、云々と書いていたのを見た時、この人も、本当の仏教を知らないと、すぐに納得した。
親鸞は、仏教の教えではなく、浄土教の信者である。
浄土教が、仏教ではないのは、当然の事。
ただの、勝手な、教えである。
仏という言葉を使えば、皆々、仏教と思うところが、愚かである。
その、愚かさを、十分に知らせたい。教えたい。
ここまで、神仏は妄想である、を書いて来て、更に、終わらないとは、本当に、宗教とは、迷惑な存在である。
神仏がなければ、生きられない人は、もう、自害して果てた方がよい。
仏教とは、仏陀が、創始した教えを言う。
当たり前のことだが・・・
それを、知らない人が多いので、敢えて、言っておく。
仏陀は、ブッダ、漢字で、仏、仏陀と書くが、それは、原音を写したものである。
その姓は、ゴータマ、名を、シッダッタという。
ゴータマとは、最も良い牛、という意味である。
古来のインドでは、優れた姓とされていた。
シッダッタとは、パーリ語で、目的を達成した者、という意味である。
そして、彼の家系は、太陽の末裔と称していた、釈迦族である。
仏陀は、ネパールの釈迦族の中心地である、カピラ城に、国王浄飯王の長子として生まれた。
ここで、インドではないことが解る。
ネパールの宗教と言える。
だが、インドの宗教と呼ばれるのは、何故か・・・
追々、書いて行くことにする。
お釈迦様という言い方は、間違いであることが、解る。
釈迦とは、部族の名である。あるいは、種族である。
それを、尊称して、釈迦牟尼、シャカムニとも、言う。
カピラ城は、中部ネパールの南方の、タラーイ盆地にある。
調査が進み、昔の城郭などの、構造も、明らかになってきた。
まず、ここでは、インドではなく、ネパールの人であることを言う。
ただ、活動したのが、インドが主だった。
それも、おかしなことであるが・・・
何故、インドなどで、活動したのか・・・
悟った者なら、別に何処にいてもいいのだが・・・インドだというから、私は、おかしいと思う。
今でいえば、ミーハーだったのかもしれない。
インドという、大都市に憧れたのか・・・
この仏陀の行為も、次第に、解き明かすことにする。
わざわざ、魔界の地、インドに行くとは・・・
呆れる。
神々の地、日本に生まれなかったことが、仏陀の不幸である。