神仏は妄想である589

前回まで、いかに、キリスト教白人が野蛮な民族であるかを、書いた。

御覧の通りである。


ただし、一つだけ、救いは、辛うじてキリスト教という宗教によって、少しは、その野蛮な行為が、抑制されもするという、ことである。


これで、キリスト教というものの、本質を見た。

日本にも、キリスト教徒がいる。

だが、彼らは、ただ、騙されているだけである。


気の毒である。

知らないという、ことだ。


キリスト教の本質を知れば、仰天するだろう。


さて、次は、仏教である。

再度、いや、何度も書く必要がある。


現在、本当の仏教知るというような、謳い文句で、仏教を講義して、広めている人がいるが・・・

その一端を、覗いてみると、驚くべき、蒙昧である。


勿論、日本の仏教の、すべての宗派にも言えるが、彼らは、仏教の何たるかを知らないようである。


大乗仏教は、仏教ではない。

あれは、大乗教である。


更に、そ以前の、上座部仏教が、仏教かというと、それも違う。


両者共に、唯の、幻想、妄想の宗教である。


その教義は、人間が作ったものであり、仏とかいう、化け物を掲げて、意気揚々としている様子だが、何も知らない。


教学などという、言葉を用いること自体が、呆れるのである。

ただの、いかれた、屁理屈である。


以前も書いたが、仏教徒とは、仏陀の教えを、最初から、裏切り、破ったもの達の、集いである。


手の付けられない、妄想に身を任せて、何やら、それらしく、僧侶という生業をしているが、それ自体が、仏陀に対する、裏切りである。


よくも、のうのうとして、生きていられるものであると、私は言う。


彼らが死んで、行く世界は、単なる、仏教冥界、あるいは、仏教幽界である。決して、極楽などいう、場所には、行かない。

何せ、あちらの世界に、極楽などという、世界は、無い。


そこで、私は、致し方なく、仏陀の仏教を、書くことにする。


本当の仏教というものを語る者が、親鸞は、云々と書いていたのを見た時、この人も、本当の仏教を知らないと、すぐに納得した。


親鸞は、仏教の教えではなく、浄土教の信者である。

浄土教が、仏教ではないのは、当然の事。


ただの、勝手な、教えである。


仏という言葉を使えば、皆々、仏教と思うところが、愚かである。


その、愚かさを、十分に知らせたい。教えたい。


ここまで、神仏は妄想である、を書いて来て、更に、終わらないとは、本当に、宗教とは、迷惑な存在である。


神仏がなければ、生きられない人は、もう、自害して果てた方がよい。


仏教とは、仏陀が、創始した教えを言う。

当たり前のことだが・・・


それを、知らない人が多いので、敢えて、言っておく。


仏陀は、ブッダ、漢字で、仏、仏陀と書くが、それは、原音を写したものである。


その姓は、ゴータマ、名を、シッダッタという。


ゴータマとは、最も良い牛、という意味である。

古来のインドでは、優れた姓とされていた。

シッダッタとは、パーリ語で、目的を達成した者、という意味である。


そして、彼の家系は、太陽の末裔と称していた、釈迦族である。


仏陀は、ネパールの釈迦族の中心地である、カピラ城に、国王浄飯王の長子として生まれた。


ここで、インドではないことが解る。

ネパールの宗教と言える。

だが、インドの宗教と呼ばれるのは、何故か・・・


追々、書いて行くことにする。


お釈迦様という言い方は、間違いであることが、解る。

釈迦とは、部族の名である。あるいは、種族である。


それを、尊称して、釈迦牟尼、シャカムニとも、言う。


カピラ城は、中部ネパールの南方の、タラーイ盆地にある。

調査が進み、昔の城郭などの、構造も、明らかになってきた。


まず、ここでは、インドではなく、ネパールの人であることを言う。


ただ、活動したのが、インドが主だった。

それも、おかしなことであるが・・・


何故、インドなどで、活動したのか・・・

悟った者なら、別に何処にいてもいいのだが・・・インドだというから、私は、おかしいと思う。


今でいえば、ミーハーだったのかもしれない。

インドという、大都市に憧れたのか・・・


この仏陀の行為も、次第に、解き明かすことにする。


わざわざ、魔界の地、インドに行くとは・・・

呆れる。


神々の地、日本に生まれなかったことが、仏陀の不幸である。