メイン・ブログに、もののあわれについて、を書き続けて、いつに、1000回を達成した。
達成とは、希望ではない。
いずれは、1000回になると、知っていた。
それにしても、死ぬまで書き続けるという、根性である。
勿論、死ぬまでの、暇つぶしである。
その他も、多々、ブログで書いている。
御覧の通りである。
もののあわれについて、は、ただ今、源氏物語である。
それが、終わると、新古今集に行く。
そして、その先も、延々と続く。
こうして、続けることが、成功であるし、私を私が、信じることが出来る。
何せ、続けると決めて、続けられないとは、私が、私を信用出来ないと言うことになる。
金には、ならない。
金にならないことをして、続けている。
さて、ブログは、一日、150人ほどが、見ていた、読んでいてくれた時期があるが・・・
ただ今は、数名である。
その一つは、中国、韓国に対する、批判、非難をすると、検索で削除されるということだ。
それは、打倒・韓国、を書いた時に、実感した。
検索から、消えたのである。
つまり、消した者がいるということだ。
まあ、そんなことは、どうでも、いい。
私は、私のために、書いている。
ただ、それだけ。
勿論、他のブログも、そうである。
神仏は妄想である。死ぬ義務。生きるに意味などない。まだある・・・
だが、一時中断しているものも、ある。
性について、である。
色々と、書いてきたが、どうも、思考が拡散してきた。
性同一性障害あたりまでは、何とか、書いたが、新しい、ゲイ、レズビアン等々の、人類学からの見方を書いていると、あまりに、広げ過ぎたという、感慨である。
人間の性とは、実に、不思議なもので、一筋縄ではゆかない。
それは、最初から、逸脱しているからである。
正常という性の、在り方はない。
人間の性は、すべてが、異常である。
だから、拠り所がない。
私も、それを判定できない。
それで、また、基本に戻り、性とは何か、ということになる。
これほど、捉えにくいものはない。
セクシャリティなどと言っているうちが、花である。
神が一人一人のように、性も、一人一人なのである。
千差万別・・・
呆れてしまう。
だから、正しい性、などいう議論は、出来ないのである。
さて、もののあわれについて、1000回で、次の、2000回に向かう。
おおよそ、十年ほど書いたので、2000回の前に、死ぬこともあると、考えている。
それは、私に意味があったのか・・・
実は、無いのである。
頭が悪いせいか、意味がない。
意味を見出せない。
ただ、現代文より、原文の方がいいという、だけの話。
何せ、原文を読んでいると、次第に、精神が落ち着く。
不思議である。
これは、大和言葉に、なにか、特別な音色があると、思っている。
そして、頭の中が、何となく、整理される。
整理といえば、人間は、生理で生きている。
生理が、人間の人間である意味。
どんなに悲しくても、糞、小便が出る。
それは、精神、感情に関係なく、である。
喜怒哀楽が過ぎて、糞も、小便も出なくなったとは、聞いたことが無い。
そして、糞、小便が出なくなると、死ぬ。
実に、簡単なものである。
自殺する人がいるが、いつも、糞、小便を我慢してみて、と言いたくなる。
そのうちに、死ぬ気が失せるような・・・
絶対、我慢できないはずだ。
必ず、糞も、小便も、漏らすはず。
大人になっても、漏らす人がいる。
勿論、老人は、いつも、漏らしているが・・・
ということで、生理を考えつつ、もののあはれ、の風景を見ている。
平安期の人間も、今の人も、大差ないのである。
人間とは、哀れなものである。
整理から、生理の話になった。
酷い、エッセイである。