死ぬ義務60

安楽死の中でも、特異なものは、淘汰死である。


だが、果たして、淘汰死は、安楽死と言えるのかは、解らない。


その際たるものは、戦争である。

近代国家は、運命共同体として、戦争になれば、総力戦という形で、国民全体が、これに協力、あるいは、巻き込まれる。


国家による、淘汰死というものについて。


われわれがここでかかわろうとするのは、国家共同体に過度の重荷となる生命に対する、国家の否定的かかわりである。すなわち国家共同体が、公共・全体の立場から自己に過度の負担となる生命を生存無意味として、その生命に死をもたらすようなら何らかの形での現実的関与をなす場合である。

宮川


戦争で死ぬことを、淘汰死と呼ぶ。


国家社会の存続繁栄にとっての有用性の観点から、人間存在を有意味のものと無意味のものとにふるい分け、無意味、無価値のものの生存を結局、拒否するのである。

宮川


確かに、シリアなどを見ていると、反政府派は、政府からは、無意味な存在として見るだろう。

だから、平然と、攻撃する。


そして、国家から、無意味とされた人々は、難民として、他の国に出て行く。


さて、その淘汰死には、三つに分けられると言う。


一つは、国家が一つの共同体として極限状況におかれたときに、剥き出しに出てくる、国家の合理主義的な、存続本能に基づき行われるものを、その典型とする、淘汰死である。


二つ目は、全人類的規模において出てくる、地球の人口問題あるいは、国家の社会問題としての人口問題の解決として、出されるもの。


三つ目は、人類、あるいは、国家共同体の優生学的関心に基づき、出てくる、淘汰死の要求である。


現在、日本では、過去に行った、優生学的判断に寄り、手術を受けた人が、国を相手に、裁判を起こしている。


国家存亡の危機における、淘汰死は、戦争のみならず、大地震、大飢饉、洪水、革命や敗戦による混乱により起こる、死である。


これらの問題は、倫理以前の問題となる。


北朝鮮は、飢餓の状態になると、国連などが、人道支援と称して、食糧支援を行うが、本来は、国家がそれを予測して、手を打つはずである。


だから、北朝鮮の飢餓の場合は、実に、怪しいと言う。

その人民の飢餓の最中に、核兵器を平然と作るという行為である。


そうすると、世界的倫理に照らせば、北朝鮮に食糧支援することは、実に、おかしなことになるはずだ。


大東亜戦争、第二次世界大戦に、日本軍の兵士は、至るるところで、餓死した。それも、淘汰死である。

更に、負傷者、病人は、捨て置かれた。それも、淘汰死である。


この度の、熊本豪雨災害で、亡くなられた人たちも、淘汰死と言える。


アフリカのように、人口問題にて、餓死者が出るのも、淘汰死になる。

そして、それを、世界的に支援する動きがあるが・・・

果たして、それは、本当に善意のものなのかは、解らない。


キリスト教白人も、中国共産党の支援も、その裏がある。

支援によって、その国の、資源の権益を得るというものだ。


食糧不足によって、淘汰死になるならば、それは、それで、自然に任せるというのは、レイシストになるのか・・・


私は、それも、一つの安楽死と捉えている。


自然が事実上もっている個々の人間生命への直接否定的な役割と機能を拒否し、それを無力化してしまうことによって、人間理性は従来は自然のうちにあったこのような機制力が果たしていた役割を、自ら何らかの方法で担わざるを得なくなった。増加する人口を有限の食料でどう養い、人口と食糧間のアンバランスをどう解決していくのかという課題を、今や人類は背負い込んでしまったわけである。

宮川


そんなことは、ない。

自然に任せていたら、餓死する者は、そのまま、淘汰死を受け入れざるを得ないのである。


人間が、自然に手を入れ過ぎたゆえに、人類の問題が大きくなったという事は、言えない。

何故なら、それも、自然の内であるからだ。


簡単に言うが、この地球に、人間の存在が無ければ、何の問題もなかったのである。


つまり、人間の存在が、実に、奇妙なものであることを、意識すべきである。


だから、人間の救いは、死ぬ、ということに、尽きる。


宗教の言う、精神的な救いではない。

現実な人間の救いは、死ぬ、ことなのである。


そして、その時期が来たならば、即座に、死ぬこと以外に、道はない。


宮川氏は、人口抑制について、書くが・・・

それは、省略する。


もし、本格的に、人口抑制ということを、正義とすると、すべての人間の、性的能力、生殖能力を、削除すれば、いいことだ。


そんなことは、簡単にできる。


だが、果たして、それは、倫理的に容認されるのか・・・


ここで、私は提案する。

いのち、と、寿命というものを、混乱して考えていることが問題である。


いのち、と、寿命を同じものとして考えていると、誤る。

いのち、は、延々と続くものであり、寿命は、尽きるものである。


つまり、死ぬべき時節には、死ぬことなのである。