死ぬ義務61

死ぬ時節には、死ぬことなのである。

と、前回の最後に書いた。


それでは、死ぬ時節とは、何か・・・

死ぬ時期である。

だが、死ぬ時期を、誰が知る。


もし、その時期と判断して、そして、死ぬことになれば、自殺、自死ということになる。


自殺・・・

芸能人が自殺すると、続けて、自殺が起こった。

更に、それを見て、一般の人も自殺する。


自殺は、伝播するのか・・・


そろそろ、自殺について、書くことにする。


何せ、自殺希望の者たちが集い、自殺するという、時代である。

いつの時代も、何処の国でも、それは、ある。


自殺の伝播である。


フランスで、話題騒然となった本がある。

そのものずばり、自殺、という本である。


日本語訳は、1983年4月に出版された。

その著書を参考にして、私も、それに関して、書いてみる。


いよいよ、死ぬ義務、の本領である。


その本の、翻訳者が、あとがき、にて、以下の言葉を書いている。


自殺はなぜタブーとされるのか?それはどんなにしても死ぬよりは生きるほうがいいという文明の大前提が否定されるからだ。自分の意志で死ぬのは、この社会がもたらすはずの幸福への挑戦であり、困難から逃げ出すのは卑怯とされるのだ。


とのことで・・・


自殺は、罪とさえ判定する、キリスト教、いや、宗教全般は、自殺を推奨しないのである。


与えられた命を奪うのは、与えた者のみという、考え方である。

つまり、神が与えた命を、自らが奪うな、である。


さて、現在の日本の社会では、自殺する者が多い。

特に、少し前までは、年間、三万人以上が自殺していた。


そして、今も、自殺をしたい人が集い、一時的にグループで自殺をする。


更に、自殺したいという者を集めて、殺した者もいる。


それに関して、分析するのは、私の役目ではないので、省略する。


以前、私は、日本の中世にある、死に方、自死の紹介をした。

ある程度、自分の死期を決めて、それに向かって、準備をするというもの。


それも、ある種の自殺になる。

だが、私は、それが、理想である。


それが、安楽死、尊厳死につながる、考え方である。



先の、訳者の、あとがき、以下


だがほんとうは、死ぬことも個人の自由であり、まわりがとやかく干渉するような問題ではない。自殺は死ぬべくして生まれ付いた人間に許された、ふたつの内のひとつの選択なのだ。「われわれは生きるために、死ぬ前にまともに生きるために闘うのだ」。それにどんな人間にせよ、生きるか死ぬかは、一冊の本に左右されるほど簡単な問題ではない。「この本で人を死なせることができるなら、われわれは二週間もあれば全世界を征服できるだろう」。逆に死ぬ覚悟を決めている人なら、周りがいくら止めても無駄なのだ。


と、いうことで・・・


私は言う。

死にたい人は、死になさい、と。


無理に生きる必要はない。

それほど、生きるということに、価値などない。

いや、生きるに意味などない、のである。

別エッセイを、参照のこと。


あるいは、生きていることも、死んでいることも、解らなくなった、認知症の人は、まさに、絶望の状態にあると、思う。


更に、管になって、生きているという人は、どうなのか・・・

植物人間というが・・・


人格として、生きられない場合は、生きるという事自体が、無理である。

では、障害があり、そのようにしてしか、生きられない人は、どうする。


殺しても、いいのか。

あの、相模原の事件が、それを問わせる。


何事も、糞、味噌一緒は、駄目である。

物事は、あれ、と、これ、という、境界がある。


本人が望む、安楽死、尊厳死が、まともであり、また、その本人の代理となる人が、望むことが、前提である。


倫理的なことで、書いたが、倫理として、道徳の意識として、安楽死、尊厳死を考える。


そのためには、学ぶべきことが、山のようにある。


更に、理想と現実は、違う。

違うどころか、大いに、乖離している。


死ぬ時節には、死ぬ、ということが、実は、どんなに難しい事か。

そこには、覚悟の問題がある。


覚悟とは、自らが、決めるということである。

その、自らとは、何か。

つまり、私とは、何か、である。


その私が、幻想、妄想であれば、どうなるのか。

ここに、極めて、重大な人生の秘密がある。


この世の、夢、幻の中で、死ぬことを、考えるとは、どういうことか、ということだ。

更に、私も、夢、幻なのである、から。


結論を言う。

生きても、死んでも、大差ないということである。


それを、格好つけて、禅は言う。

生死一如とか・・・

私と一緒に、しないでくれ・・・

禅、彼らは、ただの、馬鹿者たちである。


教えは、言葉ではなく、行為によって、始めて、成り立つものである。

言葉にした時点で、大嘘である。