それでは、法然の言葉。
疑いながらも念仏すれば、往生す。
法然の信仰と、決定、けつじょう、である。
西行のようではなく、決定したのである。
確実に彼の言葉かどうか文献的には不明だが、彼と同朋同行とのあいだの対話のうちに形成された言葉としてみればさらに尊い。「疑いながらも」といったときの「疑い」の深さをその時代に即して考えてみる必要がある。当時の人々の空虚感とは、南都北嶺の壮大な大寺院が、魂の廃墟と化したことであった。仏教伝来以来、数百年の年月を費やして、一体何が成就したのか。一切衆生の救いなどあり得たのか。失望落胆したにちがいないのである。
亀井
宗教に、失望落胆するのは、精神のまともな感覚である。
それらは、幻想、妄想であるからだ。
ただ、その集団のみが、何やら、盛んに、嘘を語るということだ。
成仏するだの、極楽浄土だの、その他諸々。
さらに凡夫としての心中を凝視したとき、妄想妄念の巣であり、救いの可能性など微塵もなしと自覚せざるをえなかった。無限の疑惑にとらわれたであろうが、そのあげくに辿りついたのが「他力」への自己投入であった。自己の分別の入りこまない、「賜りたる信心」としての「ただひたすら念仏」という信仰であった。
亀井
念仏にこもる弥陀の無限博大の心を、絶望者として仰いだということが核心である。
亀井
さて、その法然だが、それは、すでに、中国浄土教にて、唱えられていたものである。
法然は、そこから、選んだ。
法然が、発明発見したのではない。
隋、唐の時代の、大陸の浄土教である。
これを、法然の発見と思っていると、誤る。
別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。
彼を動かしているのは乱世の切迫感である。それぞれに異なった道を選んだが、これは親鸞にも道元にも日蓮にも共通している「無常迅速なり、生死事大なり」という乱世の声である。それと「末法の世」という危機感である。
亀井
この、末法というものも、隋、唐からの、輸入である。
「信心決定」しなければならなかったのだ。
亀井
そして、それは、王朝の女房文学の残した、嘆きに応えたものと亀井は、言う。
紫式部たちの、それは、夢であったとのこと。
この場合、西行も法然も、わが身ひとつで、武家と宗派を離脱したことを忘れてはなるまい。
亀井
第二の、宗教改革が起こるはずだったとのことだが、王朝末期と同じく、「仏法なし」なのである。
如何に、僧家たちが、堕落していたか、あるいは、それをすでに、見抜いていたのか。
つまり、妄想である、と。
それを精神の危機として、自覚し、改革の条件はあった。
だが、これを境として、五百年間衰微してゆく。
亀井が、最後の仏教者として、一休宗純と蓮如を取り上げている。
蓮如については・・・
本願寺中興の祖と言われ、本願寺を大宗派として組織した人だが、彼の真の戦いはどこにあったのか。宗派の拡大のさなかにあって宗派を否定するという逆説を生きようとしたことだ。
亀井
現在の本願寺を見れば、良く解る。
それは、何の問題意識もなく、惰性に流れて、江戸時代に確立された、そのままを、生きる。そこには、何の疑問もなく、ただただ、惰性で本願寺でございと、やっている。
浄土真宗とは、呆れた、宗派であるが、信者が多いので、誤魔化しつつ、やっている。
勿論、私は、ただ、呆れ果てている。
蓮如から以後の本願寺は、その宗派性のつよさ、組織力はむろん、財政や軍事力など、始祖親鸞の意志とは全く別の方向に進んだ。本願寺とは親鸞の名による親鸞への別離の殿堂ではなかったか。
亀井
その通り、である。
もはや、どこにも、始祖親鸞の、教えなど皆無である。
堕落しても、生き残るのが、宗教である。
例えば、キリスト教、カトリックなどは、その見本であろう。
しかし大組織の中心となり、教祖として偶像と化したとき、心のなかでは悶えながら、もはやどうすることも出来なかったのであうろか。集まってきた信徒たち自身が、大本願寺の法主としての権威を望んだであろう。それだけの人間的魅力の所有者であり、一種の呪縛力を発揮したにちがいないのである。
亀井
人間とは、愚かな者である。
こうして、延々と、幻想、妄想に頼り、生きるしかないという、悲劇である。
この精神史を見ていると、ただ、人間の愚かさを見る。
しかし、救いは、ある。
それが、芸術である。
もし、辛うじて、宗教が許されるなら、そこから出た、芸術活動と、その作品である。
そして、文化と言われるもの。
芸術文化の世界である。
現在、日本の伝統文化と言われるものが、この室町時代からのものが多い。
鎌倉時代では、武家礼法の、小笠原流のみが、現在に至る。
そこで、私は、鎌倉幕府、江戸幕府という、明確にされる時代とは違う、室町期の、幕府と、その時代を、精神史以外の、歴史学から、みることにする。
二つの幕府の時代と違い、室町期だけは、まだ、朧なのである。
歴史学から、俯瞰すると、何が見えるのか、である。