現代でも怨霊や祟りという観念は息づいており、時にオカルトブームや都市伝説などのかたちではやりすたりを繰り返しているが、中世の怨霊と現代のそれとのあいだには決定的な違いがある。それは、怨霊の祟りの対象となるのが恨みをもたれた個人やその一族だけではなく、社会全体に不慮の事態をもたらした点である。
早島大祐
現代言われる、御霊とは、個人的な恨みを晴らすという、考え方が多数である。だが、室町期以前は、違う。
怨霊は、社会全体に、大きな影響を与える、疫病、天変地異をもたらすと考えられていた。
だから、御霊信仰、ごりょうしんこう、と、呼ばれた。
祟り神を、恐れるという。
日本は、亡くなると、神になる。
だから、祟り神、となるのだ。
基本的に、日本には、悪霊、悪魔という存在は、無い。
すべては、神なのである。
荒ぶる神、である。
怨霊信仰で、有名なのは、菅原道真である。
北野天満宮は、それである。
道真を神として、祀る。
その、道真の怨霊は、社会全体を、恐怖に陥れたと言われる。
そこで、足利尊氏、その弟である、直義の兄弟は、後醍醐天皇の、怨霊を恐れた。
そこで、それを鎮めるために建立された寺院が、暦応寺、後に、天龍寺と改称される、寺だった。
これについては、以前も、精神史の中で触れている。
この、天龍寺に関しては、一筋縄ではいかなかったが・・・
それについては、主旨ではないので、省略する。
いずれにしても、その建立が遅れたが、実際に、建立されたという、事実である。
ただ、一つだけ、財源に困ったが、その方法として、造営船の派遣である。
当時の中国、元への貿易船である。
鎌倉時代に、寺社造営船がいくつかあったが、その幕府滅亡後は、国内情勢の混乱と、元統三年、1335年、元の港湾都市で日本商人が海賊行為を働いた、倭寇のため、倭船来航が禁止されていて、10年以上も、元へは派遣されていなかった。
朝廷は、派遣に関しては、反対意見が多く、否定的だった。
議論の趨勢は、朝廷の強い反対により、派遣否定と傾いていたが、これを押し切ったのが、夢想疎石であった。
夢想疎石は、禅僧である。
それにより、暦応四年、足利直義の署名で、来秋に、二隻を派遣することが、決定した。
つまり、禅僧が、当時の世相を動かしたと言う、事実である。
僧侶が、そのような力を持っていたということを言う。
鎌倉時代も、僧侶により、建長寺船という、造営船を出していたと言う、事実を重く見たい。
その名称は、天龍寺船派遣である。
それほどまでに、寺院が力を持つと言う事態を、私は重く見る。
ただし、当時、元から明と、大陸の朝廷が代わり、室町幕府の財政には、大きな影響を与えることは無かったのである。
更に、大陸では、1350年代は、反乱、紅巾軍の蜂起などで、内乱状態に陥っていた。
さて、もう一つ、私が見るのは、公武関係である。
天龍寺に本尊として、釈迦三尊像が置かれたが、それを行うのは、朝廷、寺社であり、幕府は全く、関与出来なかったということである。
幕府は、建物という、ハードな部分は造れても、そのソフトに当たる、仏像や、その開眼供養などの作法は、蓄積がなく、朝廷の力を必要としたこと。
以後、朝廷と寺社そして、幕府との関係が、大きな課題となってゆく。
ここで、まとめると、当時は、朝廷、寺社、そして、幕府という、三つの集団が存在したことである。
本来、死者の鎮魂の作法は、朝廷、寺社により、成り立っていた。
それが、室町幕府は、鎮魂政策を行ったと言うことが、新しい。
最初に挙げられるのは、有名な、安国寺の、利生塔の建立である。
当初は、建武政権樹立以来の戦没者追悼目的だったが、暦応二年、後醍醐天皇の崩御から、それが大きく推進された。
同年、等持院で、後醍醐天皇の、百箇日供養の、曼荼羅供が行われ、貞和仁、1346年には、石塔八万四千基が建立されている。
更に、康永三年、1344年、貞和二年、1346年には、殺生禁断令が出されている。
その理由は、戦没者供養のためである。
幕府が、そのような、鎮魂政策を行うという、不思議さである。
ここに、私は、室町幕府が、他の幕府とは異なる性質を持つものだと、言う。
それ例外の幕府で、そのようなことをしたことはなかった。
勿論、将軍が個人的に供養するという、行為は、多々あったが。
足利尊氏の信仰深さと、言うべきなのか・・・
精神史の際には、確かに、そのような分析をした。
ここには、書かないが、多々、大々的に供養祭を行っている。
それ以前の、内乱の激しさと、空しさが、尊氏を、そのように、導いたのか・・・
あまりにも、内乱の様が、激しく、人生観までを、左右するほどの、形相だったことは、精神史の際に書いたが。
しかし、その後に来る、戦国時代もまた、内乱であり、内戦の有様である。
だが、そこで、室町期のように、供養祭など、聞いたこともない。
これが、精神史から抜けて、室町期を見る必要を感じた、一つである。