一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思い込む人間意識の根本的誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分別者の立場から分節的世界の真相を、あらためて捉えなおそうとする試みなのだけれども、それにしても、この「妄念」を打ち破るには手間がかかる。初期大乗仏教の発展史が、事態を如実に反映している。
筒井
「妄念」を、つまり、現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と、思い込む意識の、根本的誤りを、打破して・・・
要するに、現実を、それが事実だと、思い込む人間である。
それが、幻想、妄想であると、言うのだ。
私も、それを言う。
目の前の、現実は、幻想、妄想なのである。
しかし、生きるとは、その中を、生きるということになる。
つまり、人生は、幻想、妄想なのである。
ただ、それだけである。
しかし、苦しみ、悩みと、苦難の連続である。
だから、人生とは、悪い冗談なのである、と。
それにしても、この「妄念」を打ち破るには、手間がかかると、言うが・・・
何の事は、無い。
無視すれば、良い。
ところが、無視出来ない、人たちがいる。
理屈の好きな、人たちである。
言葉に対する不信があろうが、コトバで、議論する、珍しい人たちだ。
それの典型的なケースとして、初期大乗仏教思想を代表する龍樹、ナーガールジュナの所説を瞥見してみよう。
筒井
と言うが・・・
私は、別エッセイ、神仏は妄想である、で、幾度か書いている。
改めて、書くのは、面倒なので、筒井氏の、引用を、茶化すことにする。
ナーガールジュナは、いま我々が問題にしている言語「妄念」論を、ほとんど存在論的ニヒリズムすれすれのところまで論理的に追い詰めた人である。
筒井
確かに、そうかもしれない。
特に、否定の否定の、否定・・・
実に、論破し難い、言葉の羅列だった。
賢いのか、馬鹿なのか・・・解らない程。
彼の哲学のキー・ターム「空は、経験的世界における一切の事物・事象が、コトバの意味によって我々の意識内に喚起される仮象、仮名であって、本当は「空」であること、すなわち「無自性」であること、を意味する。常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない。
筒井
またまた、空が出た。
また、無自性とも言う。
常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない・・・
当然である。
そんなことを、疑えば、まともに、生きられない。
外を一歩も、歩けない。
この素朴で無批判な存在信仰を、ナーガールジュナは人間の心の痼疾として批判する。
筒井
痼疾とは、病のようなもの。囚われと、疾病である。
無批判な、存在信仰・・・とは・・・
当時の、屁理屈好きな人々のことである。
龍樹は、一般の人を相手にしたのではない。
論争相手を、論破するために、議論していた。
人々が真実在と思い込んでいる経験的事物・事象は、彼によれば、ことごとくコトバの意味生産的想像力が生み出す偽りの形象、夢幻、にすぎない。この言語的「妄念」の作用を、彼はプラパチャという語の特殊な用法を通じて抉り出す。「業」悩みが滅した時に、はじめて解脱がある。業の悩みは、すべて意識の分節作用から生起する。そして、それら一切が、プラパチャから生じてくる。プラパチャそのものは、空の体験において、はじめて消滅する。
筒井
解脱するには、相当に、屁理屈、あるいは、キチガイでなければ、出来ないということだ。
少し説明すると、心理学になる。
業、カルマは、行為が潜在意識に残していく痕跡の苦悩である。
要するに、行為により、潜在意識に、意味エネルギーとして、心の深部に浸透する。その働きで、実存の苦悩が生まれるという。
まあ、心理学より、深いところの意識であるとも、言う。
ユングの集合意識に近いと、思うが・・・
と、すると、ある人の、業は、他の人の業にもなる。
と、語ると、終わらない議論になるので・・・
ナーガールジュナは、言葉を発明もした。というより、言葉に、新しい定義をつけた。
ヴィルカパ、という言葉は、漢訳では、妄想分別、つまり、ありもしない、区別、差別を立てる事である。
人生は、そのまま、妄想分別の、有様である。
それで、いい。
何故、それを議論するのかは、当時の人たちの中で、別なことを、考えていた人たちがいるということだ。
インド人は、兎に角、暇だった。
だから、時間に飽かせて、議論に議論を重ねた。というより、議論に負けると、殺されるということもあった。
それなら、議論に負けられないと、頑張る。
だから、生きるに意味を見出す行為は、本当に、ご苦労さんなのである。
結果は、生きるに意味などない、のである。