生きるに意味などない191

ブラパチャは、普通のサンスクリットでは、「多様性」「多者化」、すなわち何かをあらゆる方向に向かって多種多様に変転し、展開し、くりひろげていくこと、を意味するが、ナーガールジュナの哲学的コンテクストでは、根源的一者(「空」、「無」)が、様々な語の意味の示唆する分割線にそって、四方八方に分散し、散乱することを意味する。

筒井俊彦


意味的分散・・・

言語意味に基づく、一者の多者化。

老子は、無名が有名になると言う。


色々とあるが・・・

東洋思想の中である。


簡単に説明すると、ナーガールジュナは、外界に存在するものは、第一義的には、ことごとく「名」、それは、語の意味が実体化され、現れているものに過ぎないと言う。


それを、彼は、妄想分別、の所産と言う。


実に、すっきりしている。

経験的「世界」が、妄想分別なのである。


つまり、私がいつも言う、この世は、幻想、妄想なのである。

しかし、それでも、苦しみ、楽しみがある。

それは、どういうことか・・・


ただの、心の綾である。


それを過ぎて見れば、良く解る。

何でもないことだった。


一時の気の迷いだった。


我々は、それと気づかずに、このベールをすかして「空」を見る。その時、「空」は様々に分節された姿で我々の目に映る。・・・

この「空」分節の業態が、言語ごとに異なるのは当然である。そして、言語ごとに異なる「空」分節の上に、異なる文化が成立する。

筒井


と、いうことで・・・

翻訳は可能か、である。


スコットランドの学者が、万葉集の全英訳をするという、ニュースがあった。偉いものである。

しかし、それは、大変な労苦であろう。


無理とは、言わないが・・・

それなら、日本語、大和言葉を学んで、読むべきだと、私は言う。


勿論、英訳して、外国人が、万葉集という民族詞華集を知ることは、ありがたいことだ。


原文を読まなければ、解らないことは、多々ある。


さて、筒井氏は、先を進める。


ナーガールジュナ等などの、思想家の言葉通りに行くと、文化ニヒリズムに直結しそうであると。


しかしながら、考察をもう一歩進めてみると、文化およびその基底にあるコトバが、必ずしも否定的事態に始終するものではないことを、我々は知る。文化を成立させるコトバの意味生産的メカニズムには、もっと可塑的な、力動的に側面があるのだ。

筒井


そこで、面倒な説明だが、フランスの、ロラン・バルトは、コトバの「圧倒性」の本生について語る。


以下

すべて言語なるものは一つの分類様式である。

およそ「秩序」なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する。


分類とは、分節である。


コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている、という。


コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する、らしいのである。


そして、

ファシズムとは、何かを言うことを禁止するのではなくて、何かをどうしても言わなければならないように強制するもの、とのことだ。


一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。

筒井


と、いうことで、益々と、理屈が盛り上がる。


たしかに、独立した一つの社会制度としてのコトバ、すなわち各個別言語は、意味論的には、一定数の意味分節単位の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれないようになっている。

筒井


固定して、動きのとれない事物、事象からなる、既成的世界像を生み出す、らしい。


そして、人は、誰もが、そのような、出来合いの「世界」に生きている、とのことだ。


そして、以下


そして、もし文化が、言語表層で形成される「現実」だけに基礎づけられているものだとすれば、文化は、社会制度的因襲によってかっちり固定され、力動的な創造性を喪失した紋切型の感情、紋切型の行動パターンにすぎないことになるだろう。

筒井


実に、恐ろしいことである。


日本の言霊信仰など、吹っ飛ぶ。


だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定性によって特徴づけられる表層次元の下は、隠れた深層構造をもっている。

筒井


と、救われるのである。


まだまだ、この話は、続きがある。