言語は、社会制度的固定化によって、特徴づけられる表層次元の下に、隠れた、深層構造を持つ。
と、そこまでは、いい。
そこでは、言語的意味は、流動的浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動性の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されていない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上がっていないからだ。
筒井
実は、当たり前のことである。
それを、ご大層に語るという、神経は、ただ事ではない。
余程、酔っている様子である。
語ることに、酔っているのである。
これが、哲学者とか、思想家と言われる人たちの、神経である。
解ることを、語るということである。
それならば、もっと、解るように、語れる。
だから、以下
勿論、かつ消えかつ現れることらの意味のあいだにも区別はある。だが、その区別は、表層次元に見られるような固定性をもっていない。「意味」というよりは、むしろ「意味可能体」である。
筒井
つまり、言葉の意味が出来上がる前の、状態が、そうだというのである。
そして、「無名」が、まさに、「有名」に転じようとする、微妙な中間地帯だと言う。
人類は、言葉という、大脳化により、とんでもないものを、発明したのである。
それにより、捏ね繰り回して、いかようにでも出来る、言葉遊びを思い付いた。それが、哲学、思想である。
もう一つ、オマケに、宗教である。
それらは、すべて、幻想、妄想である。
私を、それで、騙せるはずもない。
そうして、今度は、老子の思想を持ってくる。
そもそも「道」というものはーーーと、老子が言うのだ。---漠々としてほの暗い。ほの暗く漠々たるそのなかに、しかし、なんとなく象らしきものがある。漠々としてほの暗いそのなかに、何やらものの気配らしきものがある。
筒井
そうだ、その通り。
そして、言葉が生まれる。
あまりに、馬鹿馬鹿しくて、省略する。
いまだ「名」をもたぬものは、いまだ存在していない。「無名」は、すなわち「無」。だが、「無」であっても、必ずしも絶対的、無条件的に無だというわけではない。日常的経験においてすら、何かが実在はしていないけれど、そうかといってそれが全くないわけでもないというような場合が多々あることを、我々は知っている。
筒井
存在するものには、すべて、言葉が付くということである。が、私は違う。
存在しないものにも、言葉が付く。
それが、人間の言葉の世界である。
「名」を得れば、存在するという考え方である。
違う。
存在しなくても、名は付く。言葉が付く。
意味生成の過程においても、何かが、まだこれこれのものとしては実在していないが、いまさまに「名」を得て、存在世界に入ろうとしているといあ場合が、しばしばあるのだ。
筒井
その無と、有の間を、我々は、彷徨しているらしいが・・・
日本語、大和言葉には、たゆたい、という言葉がある。
まさに、それである。
すでに、大和言葉には、その、たゆたい、という、微妙繊細な、「名」にすることの出来ない状態を現す、言葉があった。
それに関しては、筒井氏は、何も言わない。
兎に角、東洋思想の中での、論述である。
だが、日本も、東洋である。
ところが、大和言葉には、論ずるということがない。
故に、取り上げられない。
つまり、語り尽くすという、言挙げがないから、哲学、思想の分野には、入らない。
是非とも、大和言葉について、語って欲しいが、語る程の、語彙がないのが、大和言葉である。
そして、実は、その大和言葉の方が、言葉としては、有意義なのである。
だが、これを書き始めると、終わらなくなるので、一旦、終わる。
次に、続ける。
「意味可能体」の生成を、「老子」は、いま見たように、詩的象徴的に描くだへけだが、それをもっと理論的に追及した人たちが、東洋の哲学的伝統のなかにいる。大乗仏教、唯識派の思想家たちだ。
筒井
別エッセイに、神仏は妄想である、を書いている。そこで、取り上げたいと思っていた、唯識であるが・・・
ここで、その唯識の考え方を見るのも、有意義だ。
唯識の思想家たちの立場は、前述のナーガールジュナのそれと完全に一致する。しかし、現象以前の「空」から、現象的世界が原語意味的に喚起される過程での、深層意識の役割の大きさを強調する点において、彼らは、他のすべての大乗仏教諸派から自らを明確に区別する。
筒井
当時は、区別することで、命まで救われれるのだから・・・
つまり、議論のための、議論に明け暮れていた時期である。
インド人の、屁理屈は、相当なものである。
それでは、次に続く。