生きるに意味などない122

生きるに意味などない、という、エッセイを書いて、ここまで来た。 日本人の心性にある、無常、という感覚は、仏教の、無、あるいは、空、という観念から発したといえるが・・・実際は、あはれ、という言葉があったのである。 無、空、という、観念を受け入れられたのは、あはれ、があったからである。 それは、もの、皆、あはれ、なのであるという、諦観である。そして、生きるために、特別な、意味は必要なかった。 …

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生きるに意味などない121

西田がいかに「無」というものを、「いかなる罪人をも包み込む暖かい心」というように捉えようとしても、それは容易なことではなかったでしょう。しかし、人との別れ、過去への追想、失われた時間への罪悪感、そこからでてくる運命的なものの享受といったことがらをひとつひとつ通過し、自らの根底にある「悲しみ」を凝視してその先に「無」を求めていたことは間違いないのです。そこでようやく「もはや私というものはないのだ」…

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生きるに意味などない120

日本に西洋のような体系的な哲学や思想が生まれなかったひとつの理由は、日本では「ものを考えること」が、世界の認識へ向かうのではなく、多くの場合、人が生きる上でのある境地を目指すものだったからです。仏教の教えや禅もそうであり、かなり学問的な儒学にもその傾向があり、俳句や和歌もその方向を向きました。 佐伯啓思 それは、風土により、決定的だった。 人が生きる境地・・・である。 世界の認識…

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