死ぬ義務11 2018年12月14日 源信の、「臨終の行儀」おいて、論じていることは、二つある。 一つは、念仏の行者が病気になった場合、かれを「無常院」という、病室に移し、その部屋の中に、阿弥陀の仏像を安置する。この像は、西方に向けて立て、その左手には、五色の細長い紐をかけて、後ろに垂らす。そして、その紐を、病者が左手にとって、頭北西面して横たわる。 臨終の場面で、その阿弥陀象の背後にしたがい、五色のテープにすがって、西方浄土に…続きを読む
死ぬ義務10 2018年10月03日 さて、素人である私が、物を書く場合、権威がないため、権威ある人の、文を引用する。 だがここで、中世を振り返ってみよう。なぜならわが国においても死の思想が発展したのは、西欧と同じように古代末から中世にかけてであったからだ。すなわち「日本往生極楽記」のような往生伝が数多く編述され、地獄草紙や阿弥陀来迎図が制作されるようになった。往生伝というと、一般に高僧伝や名僧伝のようにうけとめられがちである。し…続きを読む
死ぬ義務9 2018年10月02日 「ひとつの情念がいまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく、実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態(いわゆる神経医学的なものではなく、収容所内の孤独の沈黙を指す)が進行の限界に達したとき、私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。衰弱と荒廃の果てに、ある種の奇妙な安堵がおとずれることを、私ははじめ…続きを読む