神仏は妄想である577

前回に引き続き、唐の時代、中国浄土教を大成した、善導のお説を紹介する。 くどいようだが、仏心とは、大慈悲心であると言う。 ここで、慈悲を、大慈悲と呼んでいることに、注目である。つまり、誇張している。わざわざ、大と、誇張するのが、彼らの極めて、妄想的なところである。 救いに絶望せざるを得ない者ならば、仏の大慈悲心に包まれているのだと信じることなのである。 何故、救いに絶望するのかと言えば、…

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神仏は妄想である576

さて、以前、新しい仏教運動を起こした、信行について書いたが、善導も、その教えの影響を受けている。 官権からも、仏教界からも、幾たびも弾圧を受けて、地下に潜行したが、また地上に出て、隆起するという。 それは、いつでも、宗教として生き、力を持ったのは、インドの仏弟子や、聖者、世親らの、遠い過去の聖者の仏教を求めても、駄目であるという、考えである。 つまり、現在は、末法の世こであるからと、時代と…

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神仏は妄想である575

善導もこのような罪悪凡人が清浄国土に摂取されるというような仏の密意は、凡人には、また常識的知性ではわからぬであろうという。「阿弥陀経」にも、この法は「難信之法」だと説いている。しかし宗教は科学や哲学のように、まず理解してそれから信ずるものとはかぎらない。否、信ずることとわかることが同時であるものである。信深きにしたがってわかることも深くなるのが宗教であることを、失念してはならぬであろう。研究家 …

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