神仏は妄想である571

さて、再度、曇鸞に傾倒した、道綽について、書く。 曇鸞の、浄土論を読み、往生論註を熟読し、曇鸞教学に心を注いだ。 ここで、曇鸞教学と言うが、果たして、その妄想を、教学と言えるのかということだ。 何よりも、仏になるまで進み、誓願を立てて、つまり、菩提心を起こして、と奮起する。 浄土論によって、彼は、今「菩提心を発す」とは、即ち是仏にならんと願う心であり、願作仏心とは即ちこれ衆生を度する心で…

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神仏は妄想である570

さて、中国浄土教についてを、書いている。 曇鸞も道綽も、善導も、明らかに、浄土三部経を、所依の聖典とし、教義と実践の権威とした。 しかし、曇鸞の浄土教が、無量寿経を中心とする傾向が強いのに対して、道綽、善導は、観無量寿経を中心とする。 これは、当時の仏教界に、最も流布していたこと、また各宗派の学者が、競って、研究し講読していたからである。 そして、末法仏教運動を起こした、三階教祖、信行の…

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神仏は妄想である569

信行の、三階教を、もう少し見る。 諸仏や浄土に優劣を論じて、阿弥陀仏に帰命せよ、弥勒菩薩を拝め、などという罪深き論争を止めよ。 一切の菩薩、一切の仏に、あまねく恭敬礼拝を捧げるのが、生盲の凡人の、我らに許された、行である。 仏は、一切衆生に悉く仏性あり、と説かれた。上記は、一部の経典にのみ、説かれたものである。 天台宗の開創にまで進ませた、法華経に書かれていることをも、重点として、説いた…

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