生きるに意味などない190

一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思い込む人間意識の根本的誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分別者の立場から分節的世界の真相を、あらためて捉えなおそうとする試みなのだけ…

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生きるに意味などない189

類例は東洋哲学の至るところに見いだされる。例えばイブン・アラビー、十三世紀のイスラーム哲学者。彼の思想においては、「天地創造以前」の究極的存在リアリティは、ghayb 「玄虚」である。この言葉は、アラビア語では、底知れぬ深い闇のなかに、一物も残さずにすべてが穏没しきった状態を意味する。この形而上的境位を表すために、イブン・アラビーは「無」とも言う。「無」とは「無一物」の意。ただの一物も顕現してい…

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生きるに意味などない188

万物斉一(「道」は本来、絶対無差別、無分節であって、すべてのものは互いにに斉しく、窮極的には一である)という荘子哲学の根本原理に結びつけて、「荘子」雑篇の一節は、コトバについてこう結論する。「言わざれば即ち斉し。斉しきと言とは斉しからず。言と斉しきとは斉しからざるなり。故に曰く「言無し」と)。筒井 斉しく、とは、ひとしく、と読む。言と、等しくは、等しくないと、言う。故に、言、無し、である。 …

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