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    <title>木村天山３</title>
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    <itunes:author>木村天山３</itunes:author>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479863772.html</link>
      <title>生きるに意味などない192</title>
      <pubDate>Thu, 04 Feb 2021 07:58:39 +0900</pubDate>
            <description>言語は、社会制度的固定化によって、特徴づけられる表層次元の下に、隠れた、深層構造を持つ。と、そこまでは、いい。そこでは、言語的意味は、流動的浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動性の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されていない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上がっていないからだ。筒井実は、当たり前のことである。それを、ご大層に語るという、神経は、ただ事ではない。余程、酔っている様子である。語ることに、酔っているのである。これが、哲学者とか..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
言語は、社会制度的固定化によって、特徴づけられる表層次元の下に、隠れた、深層構造を持つ。
と、そこまでは、いい。
そこでは、言語的意味は、流動的浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動性の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されていない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上がっていないからだ。筒井
実は、当たり前のことである。それを、ご大層に語るという、神経は、ただ事ではない。
余程、酔っている様子である。
語ることに、酔っているのである。これが、哲学者とか、思想家と言われる人たちの、神経である。
解ることを、語るということである。それならば、もっと、解るように、語れる。
だから、以下
勿論、かつ消えかつ現れることらの意味のあいだにも区別はある。だが、その区別は、表層次元に見られるような固定性をもっていない。「意味」というよりは、むしろ「意味可能体」である。筒井
つまり、言葉の意味が出来上がる前の、状態が、そうだというのである。
そして、「無名」が、まさに、「有名」に転じようとする、微妙な中間地帯だと言う。
人類は、言葉という、大脳化により、とんでもないものを、発明したのである。
それにより、捏ね繰り回して、いかようにでも出来る、言葉遊びを思い付いた。それが、哲学、思想である。もう一つ、オマケに、宗教である。
それらは、すべて、幻想、妄想である。
私を、それで、騙せるはずもない。
そうして、今度は、老子の思想を持ってくる。
そもそも「道」というものはーーーと、老子が言うのだ。－－－漠々としてほの暗い。ほの暗く漠々たるそのなかに、しかし、なんとなく象らしきものがある。漠々としてほの暗いそのなかに、何やらものの気配らしきものがある。筒井
そうだ、その通り。そして、言葉が生まれる。
あまりに、馬鹿馬鹿しくて、省略する。
いまだ「名」をもたぬものは、いまだ存在していない。「無名」は、すなわち「無」。だが、「無」であっても、必ずしも絶対的、無条件的に無だというわけではない。日常的経験においてすら、何かが実在はしていないけれど、そうかといってそれが全くないわけでもないというような場合が多々あることを、我々は知っている。筒井
存在するものには、すべて、言葉が付くということである。が、私は違う。存在しないものにも、言葉が付く。それが、人間の言葉の世界である。
「名」を得れば、存在するという考え方である。違う。
存在しなくても、名は付く。言葉が付く。
意味生成の過程においても、何かが、まだこれこれのものとしては実在していないが、いまさまに「名」を得て、存在世界に入ろうとしているといあ場合が、しばしばあるのだ。筒井
その無と、有の間を、我々は、彷徨しているらしいが・・・
日本語、大和言葉には、たゆたい、という言葉がある。まさに、それである。
すでに、大和言葉には、その、たゆたい、という、微妙繊細な、「名」にすることの出来ない状態を現す、言葉があった。
それに関しては、筒井氏は、何も言わない。兎に角、東洋思想の中での、論述である。
だが、日本も、東洋である。ところが、大和言葉には、論ずるということがない。
故に、取り上げられない。つまり、語り尽くすという、言挙げがないから、哲学、思想の分野には、入らない。
是非とも、大和言葉について、語って欲しいが、語る程の、語彙がないのが、大和言葉である。
そして、実は、その大和言葉の方が、言葉としては、有意義なのである。
だが、これを書き始めると、終わらなくなるので、一旦、終わる。
次に、続ける。
「意味可能体」の生成を、「老子」は、いま見たように、詩的象徴的に描くだへけだが、それをもっと理論的に追及した人たちが、東洋の哲学的伝統のなかにいる。大乗仏教、唯識派の思想家たちだ。筒井
別エッセイに、神仏は妄想である、を書いている。そこで、取り上げたいと思っていた、唯識であるが・・・
ここで、その唯識の考え方を見るのも、有意義だ。
唯識の思想家たちの立場は、前述のナーガールジュナのそれと完全に一致する。しかし、現象以前の「空」から、現象的世界が原語意味的に喚起される過程での、深層意識の役割の大きさを強調する点において、彼らは、他のすべての大乗仏教諸派から自らを明確に区別する。筒井
当時は、区別することで、命まで救われれるのだから・・・つまり、議論のための、議論に明け暮れていた時期である。
インド人の、屁理屈は、相当なものである。それでは、次に続く。


<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>言語は、社会制度的固定化によって、特徴づけられる表層次元の下に、隠れた、深層構造を持つ。</p><br /><p>と、そこまでは、いい。</p><br /><p>そこでは、言語的意味は、流動的浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動性の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されていない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上がっていないからだ。</p><p>筒井</p><br /><p>実は、当たり前のことである。</p><p>それを、ご大層に語るという、神経は、ただ事ではない。</p><br /><p>余程、酔っている様子である。</p><br /><p>語ることに、酔っているのである。</p><p>これが、哲学者とか、思想家と言われる人たちの、神経である。</p><br /><p>解ることを、語るということである。</p><p>それならば、もっと、解るように、語れる。</p><br /><p>だから、以下</p><br /><p>勿論、かつ消えかつ現れることらの意味のあいだにも区別はある。だが、その区別は、表層次元に見られるような固定性をもっていない。「意味」というよりは、むしろ「意味可能体」である。</p><p>筒井</p><br /><p>つまり、言葉の意味が出来上がる前の、状態が、そうだというのである。</p><br /><p>そして、「無名」が、まさに、「有名」に転じようとする、微妙な中間地帯だと言う。</p><br /><p>人類は、言葉という、大脳化により、とんでもないものを、発明したのである。</p><br /><p>それにより、捏ね繰り回して、いかようにでも出来る、言葉遊びを思い付いた。それが、哲学、思想である。</p><p>もう一つ、オマケに、宗教である。</p><br /><p>それらは、すべて、幻想、妄想である。</p><br /><p>私を、それで、騙せるはずもない。</p><br /><p>そうして、今度は、老子の思想を持ってくる。</p><br /><p>そもそも「道」というものはーーーと、老子が言うのだ。－－－漠々としてほの暗い。ほの暗く漠々たるそのなかに、しかし、なんとなく象らしきものがある。漠々としてほの暗いそのなかに、何やらものの気配らしきものがある。</p><p>筒井</p><br /><p>そうだ、その通り。</p><p>そして、言葉が生まれる。</p><br /><p>あまりに、馬鹿馬鹿しくて、省略する。</p><br /><p>いまだ「名」をもたぬものは、いまだ存在していない。「無名」は、すなわち「無」。だが、「無」であっても、必ずしも絶対的、無条件的に無だというわけではない。日常的経験においてすら、何かが実在はしていないけれど、そうかといってそれが全くないわけでもないというような場合が多々あることを、我々は知っている。</p><p>筒井</p><br /><p>存在するものには、すべて、言葉が付くということである。が、私は違う。</p><p>存在しないものにも、言葉が付く。</p><p>それが、人間の言葉の世界である。</p><br /><p>「名」を得れば、存在するという考え方である。</p><p>違う。</p><br /><p>存在しなくても、名は付く。言葉が付く。</p><br /><p>意味生成の過程においても、何かが、まだこれこれのものとしては実在していないが、いまさまに「名」を得て、存在世界に入ろうとしているといあ場合が、しばしばあるのだ。</p><p>筒井</p><br /><p>その無と、有の間を、我々は、彷徨しているらしいが・・・</p><br /><p>日本語、大和言葉には、たゆたい、という言葉がある。</p><p>まさに、それである。</p><br /><p>すでに、大和言葉には、その、たゆたい、という、微妙繊細な、「名」にすることの出来ない状態を現す、言葉があった。</p><br /><p>それに関しては、筒井氏は、何も言わない。</p><p>兎に角、東洋思想の中での、論述である。</p><br /><p>だが、日本も、東洋である。</p><p>ところが、大和言葉には、論ずるということがない。</p><br /><p>故に、取り上げられない。</p><p>つまり、語り尽くすという、言挙げがないから、哲学、思想の分野には、入らない。</p><br /><p>是非とも、大和言葉について、語って欲しいが、語る程の、語彙がないのが、大和言葉である。</p><br /><p>そして、実は、その大和言葉の方が、言葉としては、有意義なのである。</p><br /><p>だが、これを書き始めると、終わらなくなるので、一旦、終わる。</p><br /><p>次に、続ける。</p><br /><p>「意味可能体」の生成を、「老子」は、いま見たように、詩的象徴的に描くだへけだが、それをもっと理論的に追及した人たちが、東洋の哲学的伝統のなかにいる。大乗仏教、唯識派の思想家たちだ。</p><p>筒井</p><br /><p>別エッセイに、神仏は妄想である、を書いている。そこで、取り上げたいと思っていた、唯識であるが・・・</p><br /><p>ここで、その唯識の考え方を見るのも、有意義だ。</p><br /><p>唯識の思想家たちの立場は、前述のナーガールジュナのそれと完全に一致する。しかし、現象以前の「空」から、現象的世界が原語意味的に喚起される過程での、深層意識の役割の大きさを強調する点において、彼らは、他のすべての大乗仏教諸派から自らを明確に区別する。</p><p>筒井</p><br /><p>当時は、区別することで、命まで救われれるのだから・・・</p><p>つまり、議論のための、議論に明け暮れていた時期である。</p><br /><p>インド人の、屁理屈は、相当なものである。</p><p>それでは、次に続く。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>生きるに意味などない7</category>
      <author>木村天山３</author>
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      <title>生きるに意味などない191</title>
      <pubDate>Mon, 25 Jan 2021 07:49:52 +0900</pubDate>
            <description>ブラパチャは、普通のサンスクリットでは、「多様性」「多者化」、すなわち何かをあらゆる方向に向かって多種多様に変転し、展開し、くりひろげていくこと、を意味するが、ナーガールジュナの哲学的コンテクストでは、根源的一者(「空」、「無」)が、様々な語の意味の示唆する分割線にそって、四方八方に分散し、散乱することを意味する。筒井俊彦意味的分散・・・言語意味に基づく、一者の多者化。老子は、無名が有名になると言う。色々とあるが・・・東洋思想の中である。簡単に説明すると、ナーガールジュナは、..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
ブラパチャは、普通のサンスクリットでは、「多様性」「多者化」、すなわち何かをあらゆる方向に向かって多種多様に変転し、展開し、くりひろげていくこと、を意味するが、ナーガールジュナの哲学的コンテクストでは、根源的一者(「空」、「無」)が、様々な語の意味の示唆する分割線にそって、四方八方に分散し、散乱することを意味する。筒井俊彦
意味的分散・・・言語意味に基づく、一者の多者化。老子は、無名が有名になると言う。
色々とあるが・・・東洋思想の中である。
簡単に説明すると、ナーガールジュナは、外界に存在するものは、第一義的には、ことごとく「名」、それは、語の意味が実体化され、現れているものに過ぎないと言う。
それを、彼は、妄想分別、の所産と言う。
実に、すっきりしている。経験的「世界」が、妄想分別なのである。
つまり、私がいつも言う、この世は、幻想、妄想なのである。しかし、それでも、苦しみ、楽しみがある。それは、どういうことか・・・
ただの、心の綾である。
それを過ぎて見れば、良く解る。何でもないことだった。
一時の気の迷いだった。
我々は、それと気づかずに、このベールをすかして「空」を見る。その時、「空」は様々に分節された姿で我々の目に映る。・・・この「空」分節の業態が、言語ごとに異なるのは当然である。そして、言語ごとに異なる「空」分節の上に、異なる文化が成立する。筒井
と、いうことで・・・翻訳は可能か、である。
スコットランドの学者が、万葉集の全英訳をするという、ニュースがあった。偉いものである。しかし、それは、大変な労苦であろう。
無理とは、言わないが・・・それなら、日本語、大和言葉を学んで、読むべきだと、私は言う。
勿論、英訳して、外国人が、万葉集という民族詞華集を知ることは、ありがたいことだ。
原文を読まなければ、解らないことは、多々ある。
さて、筒井氏は、先を進める。
ナーガールジュナ等などの、思想家の言葉通りに行くと、文化ニヒリズムに直結しそうであると。
しかしながら、考察をもう一歩進めてみると、文化およびその基底にあるコトバが、必ずしも否定的事態に始終するものではないことを、我々は知る。文化を成立させるコトバの意味生産的メカニズムには、もっと可塑的な、力動的に側面があるのだ。筒井
そこで、面倒な説明だが、フランスの、ロラン・バルトは、コトバの「圧倒性」の本生について語る。
以下すべて言語なるものは一つの分類様式である。およそ「秩序」なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する。
分類とは、分節である。
コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている、という。
コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する、らしいのである。
そして、ファシズムとは、何かを言うことを禁止するのではなくて、何かをどうしても言わなければならないように強制するもの、とのことだ。
一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。筒井
と、いうことで、益々と、理屈が盛り上がる。
たしかに、独立した一つの社会制度としてのコトバ、すなわち各個別言語は、意味論的には、一定数の意味分節単位の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれないようになっている。筒井
固定して、動きのとれない事物、事象からなる、既成的世界像を生み出す、らしい。
そして、人は、誰もが、そのような、出来合いの「世界」に生きている、とのことだ。
そして、以下
そして、もし文化が、言語表層で形成される「現実」だけに基礎づけられているものだとすれば、文化は、社会制度的因襲によってかっちり固定され、力動的な創造性を喪失した紋切型の感情、紋切型の行動パターンにすぎないことになるだろう。筒井
実に、恐ろしいことである。
日本の言霊信仰など、吹っ飛ぶ。
だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定性によって特徴づけられる表層次元の下は、隠れた深層構造をもっている。筒井
と、救われるのである。
まだまだ、この話は、続きがある。



<a></a>

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<div><p>ブラパチャは、普通のサンスクリットでは、「多様性」「多者化」、すなわち何かをあらゆる方向に向かって多種多様に変転し、展開し、くりひろげていくこと、を意味するが、ナーガールジュナの哲学的コンテクストでは、根源的一者(「空」、「無」)が、様々な語の意味の示唆する分割線にそって、四方八方に分散し、散乱することを意味する。</p><p>筒井俊彦</p><br /><p>意味的分散・・・</p><p>言語意味に基づく、一者の多者化。</p><p>老子は、無名が有名になると言う。</p><br /><p>色々とあるが・・・</p><p>東洋思想の中である。</p><br /><p>簡単に説明すると、ナーガールジュナは、外界に存在するものは、第一義的には、ことごとく「名」、それは、語の意味が実体化され、現れているものに過ぎないと言う。</p><br /><p>それを、彼は、妄想分別、の所産と言う。</p><br /><p>実に、すっきりしている。</p><p>経験的「世界」が、妄想分別なのである。</p><br /><p>つまり、私がいつも言う、この世は、幻想、妄想なのである。</p><p>しかし、それでも、苦しみ、楽しみがある。</p><p>それは、どういうことか・・・</p><br /><p>ただの、心の綾である。</p><br /><p>それを過ぎて見れば、良く解る。</p><p>何でもないことだった。</p><br /><p>一時の気の迷いだった。</p><br /><p>我々は、それと気づかずに、このベールをすかして「空」を見る。その時、「空」は様々に分節された姿で我々の目に映る。・・・</p><p>この「空」分節の業態が、言語ごとに異なるのは当然である。そして、言語ごとに異なる「空」分節の上に、異なる文化が成立する。</p><p>筒井</p><br /><p>と、いうことで・・・</p><p>翻訳は可能か、である。</p><br /><p>スコットランドの学者が、万葉集の全英訳をするという、ニュースがあった。偉いものである。</p><p>しかし、それは、大変な労苦であろう。</p><br /><p>無理とは、言わないが・・・</p><p>それなら、日本語、大和言葉を学んで、読むべきだと、私は言う。</p><br /><p>勿論、英訳して、外国人が、万葉集という民族詞華集を知ることは、ありがたいことだ。</p><br /><p>原文を読まなければ、解らないことは、多々ある。</p><br /><p>さて、筒井氏は、先を進める。</p><br /><p>ナーガールジュナ等などの、思想家の言葉通りに行くと、文化ニヒリズムに直結しそうであると。</p><br /><p>しかしながら、考察をもう一歩進めてみると、文化およびその基底にあるコトバが、必ずしも否定的事態に始終するものではないことを、我々は知る。文化を成立させるコトバの意味生産的メカニズムには、もっと可塑的な、力動的に側面があるのだ。</p><p>筒井</p><br /><p>そこで、面倒な説明だが、フランスの、ロラン・バルトは、コトバの「圧倒性」の本生について語る。</p><br /><p>以下</p><p>すべて言語なるものは一つの分類様式である。</p><p>およそ「秩序」なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する。</p><br /><p>分類とは、分節である。</p><br /><p>コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている、という。</p><br /><p>コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する、らしいのである。</p><br /><p>そして、</p><p>ファシズムとは、何かを言うことを禁止するのではなくて、何かをどうしても言わなければならないように強制するもの、とのことだ。</p><br /><p>一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。</p><p>筒井</p><br /><p>と、いうことで、益々と、理屈が盛り上がる。</p><br /><p>たしかに、独立した一つの社会制度としてのコトバ、すなわち各個別言語は、意味論的には、一定数の意味分節単位の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれないようになっている。</p><p>筒井</p><br /><p>固定して、動きのとれない事物、事象からなる、既成的世界像を生み出す、らしい。</p><br /><p>そして、人は、誰もが、そのような、出来合いの「世界」に生きている、とのことだ。</p><br /><p>そして、以下</p><br /><p>そして、もし文化が、言語表層で形成される「現実」だけに基礎づけられているものだとすれば、文化は、社会制度的因襲によってかっちり固定され、力動的な創造性を喪失した紋切型の感情、紋切型の行動パターンにすぎないことになるだろう。</p><p>筒井</p><br /><p>実に、恐ろしいことである。</p><br /><p>日本の言霊信仰など、吹っ飛ぶ。</p><br /><p>だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定性によって特徴づけられる表層次元の下は、隠れた深層構造をもっている。</p><p>筒井</p><br /><p>と、救われるのである。</p><br /><p>まだまだ、この話は、続きがある。</p><br /><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>生きるに意味などない7</category>
      <author>木村天山３</author>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479665078.html</link>
      <title>生きるに意味などない190</title>
      <pubDate>Sat, 23 Jan 2021 07:38:31 +0900</pubDate>
            <description>一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思い込む人間意識の根本的誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分別者の立場から分節的世界の真相を、あらためて捉えなおそうとする試みなのだけれども、それにしても、この「妄念」を打ち破るには手間がかかる。初期大乗仏教の発展史..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思い込む人間意識の根本的誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分別者の立場から分節的世界の真相を、あらためて捉えなおそうとする試みなのだけれども、それにしても、この「妄念」を打ち破るには手間がかかる。初期大乗仏教の発展史が、事態を如実に反映している。筒井
「妄念」を、つまり、現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と、思い込む意識の、根本的誤りを、打破して・・・
要するに、現実を、それが事実だと、思い込む人間である。それが、幻想、妄想であると、言うのだ。
私も、それを言う。目の前の、現実は、幻想、妄想なのである。しかし、生きるとは、その中を、生きるということになる。
つまり、人生は、幻想、妄想なのである。ただ、それだけである。
しかし、苦しみ、悩みと、苦難の連続である。だから、人生とは、悪い冗談なのである、と。
それにしても、この「妄念」を打ち破るには、手間がかかると、言うが・・・
何の事は、無い。無視すれば、良い。ところが、無視出来ない、人たちがいる。理屈の好きな、人たちである。
言葉に対する不信があろうが、コトバで、議論する、珍しい人たちだ。
それの典型的なケースとして、初期大乗仏教思想を代表する龍樹、ナーガールジュナの所説を瞥見してみよう。筒井と言うが・・・
私は、別エッセイ、神仏は妄想である、で、幾度か書いている。改めて、書くのは、面倒なので、筒井氏の、引用を、茶化すことにする。
ナーガールジュナは、いま我々が問題にしている言語「妄念」論を、ほとんど存在論的ニヒリズムすれすれのところまで論理的に追い詰めた人である。筒井
確かに、そうかもしれない。特に、否定の否定の、否定・・・実に、論破し難い、言葉の羅列だった。
賢いのか、馬鹿なのか・・・解らない程。
彼の哲学のキー・ターム「空は、経験的世界における一切の事物・事象が、コトバの意味によって我々の意識内に喚起される仮象、仮名であって、本当は「空」であること、すなわち「無自性」であること、を意味する。常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない。筒井
またまた、空が出た。また、無自性とも言う。
常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない・・・当然である。
そんなことを、疑えば、まともに、生きられない。外を一歩も、歩けない。
この素朴で無批判な存在信仰を、ナーガールジュナは人間の心の痼疾として批判する。筒井
痼疾とは、病のようなもの。囚われと、疾病である。無批判な、存在信仰・・・とは・・・当時の、屁理屈好きな人々のことである。
龍樹は、一般の人を相手にしたのではない。論争相手を、論破するために、議論していた。
人々が真実在と思い込んでいる経験的事物・事象は、彼によれば、ことごとくコトバの意味生産的想像力が生み出す偽りの形象、夢幻、にすぎない。この言語的「妄念」の作用を、彼はプラパチャという語の特殊な用法を通じて抉り出す。「業」悩みが滅した時に、はじめて解脱がある。業の悩みは、すべて意識の分節作用から生起する。そして、それら一切が、プラパチャから生じてくる。プラパチャそのものは、空の体験において、はじめて消滅する。筒井
解脱するには、相当に、屁理屈、あるいは、キチガイでなければ、出来ないということだ。
少し説明すると、心理学になる。業、カルマは、行為が潜在意識に残していく痕跡の苦悩である。
要するに、行為により、潜在意識に、意味エネルギーとして、心の深部に浸透する。その働きで、実存の苦悩が生まれるという。
まあ、心理学より、深いところの意識であるとも、言う。ユングの集合意識に近いと、思うが・・・
と、すると、ある人の、業は、他の人の業にもなる。と、語ると、終わらない議論になるので・・・
ナーガールジュナは、言葉を発明もした。というより、言葉に、新しい定義をつけた。
ヴィルカパ、という言葉は、漢訳では、妄想分別、つまり、ありもしない、区別、差別を立てる事である。
人生は、そのまま、妄想分別の、有様である。それで、いい。
何故、それを議論するのかは、当時の人たちの中で、別なことを、考えていた人たちがいるということだ。
インド人は、兎に角、暇だった。だから、時間に飽かせて、議論に議論を重ねた。というより、議論に負けると、殺されるということもあった。それなら、議論に負けられないと、頑張る。
だから、生きるに意味を見出す行為は、本当に、ご苦労さんなのである。
結果は、生きるに意味などない、のである。


<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思い込む人間意識の根本的誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分別者の立場から分節的世界の真相を、あらためて捉えなおそうとする試みなのだけれども、それにしても、この「妄念」を打ち破るには手間がかかる。初期大乗仏教の発展史が、事態を如実に反映している。</p><p>筒井</p><br /><p>「妄念」を、つまり、現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と、思い込む意識の、根本的誤りを、打破して・・・</p><br /><p>要するに、現実を、それが事実だと、思い込む人間である。</p><p>それが、幻想、妄想であると、言うのだ。</p><br /><p>私も、それを言う。</p><p>目の前の、現実は、幻想、妄想なのである。</p><p>しかし、生きるとは、その中を、生きるということになる。</p><br /><p>つまり、人生は、幻想、妄想なのである。</p><p>ただ、それだけである。</p><br /><p>しかし、苦しみ、悩みと、苦難の連続である。</p><p>だから、人生とは、悪い冗談なのである、と。</p><br /><p>それにしても、この「妄念」を打ち破るには、手間がかかると、言うが・・・</p><br /><p>何の事は、無い。</p><p>無視すれば、良い。</p><p>ところが、無視出来ない、人たちがいる。</p><p>理屈の好きな、人たちである。</p><br /><p>言葉に対する不信があろうが、コトバで、議論する、珍しい人たちだ。</p><br /><p>それの典型的なケースとして、初期大乗仏教思想を代表する龍樹、ナーガールジュナの所説を瞥見してみよう。</p><p>筒井</p><p>と言うが・・・</p><br /><p>私は、別エッセイ、神仏は妄想である、で、幾度か書いている。</p><p>改めて、書くのは、面倒なので、筒井氏の、引用を、茶化すことにする。</p><br /><p>ナーガールジュナは、いま我々が問題にしている言語「妄念」論を、ほとんど存在論的ニヒリズムすれすれのところまで論理的に追い詰めた人である。</p><p>筒井</p><br /><p>確かに、そうかもしれない。</p><p>特に、否定の否定の、否定・・・</p><p>実に、論破し難い、言葉の羅列だった。</p><br /><p>賢いのか、馬鹿なのか・・・解らない程。</p><br /><p>彼の哲学のキー・ターム「空は、経験的世界における一切の事物・事象が、コトバの意味によって我々の意識内に喚起される仮象、仮名であって、本当は「空」であること、すなわち「無自性」であること、を意味する。常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない。</p><p>筒井</p><br /><p>またまた、空が出た。</p><p>また、無自性とも言う。</p><br /><p>常識的に「現実」と呼ばれる経験世界の客観的実在性を、普通の人は自然に、無批判に信じて疑わない・・・</p><p>当然である。</p><br /><p>そんなことを、疑えば、まともに、生きられない。</p><p>外を一歩も、歩けない。</p><br /><p>この素朴で無批判な存在信仰を、ナーガールジュナは人間の心の痼疾として批判する。</p><p>筒井</p><br /><p>痼疾とは、病のようなもの。囚われと、疾病である。</p><p>無批判な、存在信仰・・・とは・・・</p><p>当時の、屁理屈好きな人々のことである。</p><br /><p>龍樹は、一般の人を相手にしたのではない。</p><p>論争相手を、論破するために、議論していた。</p><br /><p>人々が真実在と思い込んでいる経験的事物・事象は、彼によれば、ことごとくコトバの意味生産的想像力が生み出す偽りの形象、夢幻、にすぎない。この言語的「妄念」の作用を、彼はプラパチャという語の特殊な用法を通じて抉り出す。「業」悩みが滅した時に、はじめて解脱がある。業の悩みは、すべて意識の分節作用から生起する。そして、それら一切が、プラパチャから生じてくる。プラパチャそのものは、空の体験において、はじめて消滅する。</p><p>筒井</p><br /><p>解脱するには、相当に、屁理屈、あるいは、キチガイでなければ、出来ないということだ。</p><br /><p>少し説明すると、心理学になる。</p><p>業、カルマは、行為が潜在意識に残していく痕跡の苦悩である。</p><br /><p>要するに、行為により、潜在意識に、意味エネルギーとして、心の深部に浸透する。その働きで、実存の苦悩が生まれるという。</p><br /><p>まあ、心理学より、深いところの意識であるとも、言う。</p><p>ユングの集合意識に近いと、思うが・・・</p><br /><p>と、すると、ある人の、業は、他の人の業にもなる。</p><p>と、語ると、終わらない議論になるので・・・</p><br /><p>ナーガールジュナは、言葉を発明もした。というより、言葉に、新しい定義をつけた。</p><br /><p>ヴィルカパ、という言葉は、漢訳では、妄想分別、つまり、ありもしない、区別、差別を立てる事である。</p><br /><p>人生は、そのまま、妄想分別の、有様である。</p><p>それで、いい。</p><br /><p>何故、それを議論するのかは、当時の人たちの中で、別なことを、考えていた人たちがいるということだ。</p><br /><p>インド人は、兎に角、暇だった。</p><p>だから、時間に飽かせて、議論に議論を重ねた。というより、議論に負けると、殺されるということもあった。</p><p>それなら、議論に負けられないと、頑張る。</p><br /><p>だから、生きるに意味を見出す行為は、本当に、ご苦労さんなのである。</p><br /><p>結果は、生きるに意味などない、のである。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>生きるに意味などない7</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479665078</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479632124.html</link>
      <title>日々の言い分586</title>
      <pubDate>Thu, 21 Jan 2021 07:30:07 +0900</pubDate>
            <description>過去数年、数十年の間、家事はどんどん省力化されてきした。それは、家事がきわめて重労働で、専属の人を配置しておかないと回らないくらいだったからです。なので、どんどん省力化効率化外注化されていったことは、・とても良いことだったと思います。ところが！ですよ。どうもそれが行きすぎた気がするんです。新型コロナの感染拡大で、StayHomeが叫ばれた今年の春先。自力で家事を回す必要がないくらいまで、削減されていた都会の家事力は、文字通り・回らなくなったんですよ。ドコにも行けなくなり、物流..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
過去数年、数十年の間、家事はどんどん省力化されてきした。それは、家事がきわめて重労働で、専属の人を配置しておかないと回らないくらいだったからです。なので、どんどん省力化効率化外注化されていったことは、・とても良いことだったと思います。ところが！ですよ。どうもそれが行きすぎた気がするんです。新型コロナの感染拡大で、StayHomeが叫ばれた今年の春先。自力で家事を回す必要がないくらいまで、削減されていた都会の家事力は、文字通り・回らなくなったんですよ。ドコにも行けなくなり、物流が滞り、サービスの提供が受けられなくなったからです。これね、ホントに思うんですが、省力化や効率化が・家事力を低減させたんですよ。そう、ここ数年、数十年で削ってきたものは、ホントは・家事能力自体だったんじゃないでしょうか。繰り返しますが、過重すぎる家事労働は削減されるべきでした。ところが、必要な家事能力まで削減されてしまったのではないかというお話なんです。効率化は、そもそもグランドデザインというか、大きな計画みたいなものがあって、それに沿った形で行われてこそ意味があるものです。そうしたものがない場面で効率化を行うと・一手間でも5分でも削る方向性になってしまいます。まあ、目標額を決めない節約みたいなモンですよ。1円10円の安さを求めて遠いスーパーに出かけるみたいな。で、結果として、・手間ヒマは削減すべしってことになって、がんがん外注化効率化されてしまったんです。それが、今回の新型コロナみたいな極限状況では家事能力のなさが生活自体を脅かす形で出現したんです。これは、自分の人生の中で家事をどう位置づけているのかみたいな、ちょっと抽象的で分かりにくいことを・考えずに目の前のものだけを変えようとするからだろうと思います。こういうメルマガを書いているものとして反省しましたね。2020年ももう終わり。来年は、家事やモノと適切な距離でつきあいたいですね♪上記の書き込みを読んで・・・
家事とは、大変な労力であると、私は実感している。
つまり、私は、毎日、家事をしている。食べる物は、すべて、手作り。外食は、ほとんどしない。
男だてらで、そんな生活をしている。勿論、家事が大好きな、男もいるだろう。
まともに、家事をするとなると、それは、大事なのである。家事は、キリがない。
だから、手を抜く。その、手の抜き方が問題である。
部屋の掃除自体が、大変である。手を抜いていると、一年ほど、物の移動がない場合もある。
さて、私は、自分が食べる物には、手を抜きたくない。だから、それは、大変なことになる。
一日、二食である。それでも、大変なのだ。
おおよそ、一日置きに、ご飯を炊いている。そして、おかずを作る。
味噌汁も、かかさない。魚を焼いたり、煮たり、揚げたりする。肉も、そうだ。
そして、野菜である。漬物が大好きで、自分でも作る。ところが、食べきれないのである。
捨てることになる物を、作るのは、勇気がいる。そこで、量を少なくする。だが、量を少なくするという事が、また、大変なのである。
それも、ある程度慣れて、今は、ほどほどに出来るようになった。
まあ、こうして、また、死ぬまでの、暇を潰している。
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>過去数年、数十年の間、家事はどんどん省力化されてきした。それは、家事がきわめて重労働で、専属の人を配置しておかないと回らないくらいだったからです。なので、どんどん省力化効率化外注化されていったことは、</p><p>・とても良いことだったと思います。</p><p>ところが！ですよ。どうもそれが行きすぎた気がするんです。新型コロナの感染拡大で、StayHomeが叫ばれた今年の春先。</p><p>自力で家事を回す必要がないくらいまで、削減されていた都会の家事力は、文字通り・回らなくなったんですよ。ドコにも行けなくなり、物流が滞り、サービスの提供が受けられなくなったからです。</p><p>これね、ホントに思うんですが、省力化や効率化が・家事力を低減させた</p><p>んですよ。そう、ここ数年、数十年で削ってきたものは、ホントは・家事能力自体だったんじゃないでしょうか。繰り返しますが、過重すぎる家事労働は削減されるべきでした。ところが、必要な家事能力まで削減されてしまったのではないかというお話なんです。</p><p>効率化は、そもそもグランドデザインというか、大きな計画みたいなものがあって、それに沿った形で行われてこそ意味があるものです。そうしたものがない場面で効率化を行うと・一手間でも5分でも削る方向性になってしまいます。まあ、目標額を決めない節約みたいなモンですよ。1円10円の安さを求めて遠いスーパーに出かけるみたいな。</p><p>で、結果として、・手間ヒマは削減すべしってことになって、がんがん外注化効率化されてしまったんです。それが、今回の新型コロナみたいな極限状況では家事能力のなさが生活自体を脅かす形で出現したんです。</p><p>これは、自分の人生の中で家事をどう位置づけているのかみたいな、ちょっと抽象的で分かりにくいことを・考えずに目の前のものだけを変えようとするから</p><p>だろうと思います。こういうメルマガを書いているものとして反省しましたね。</p><p>2020年ももう終わり。来年は、家事やモノと適切な距離でつきあいたいですね♪</p><p>上記の書き込みを読んで・・・</p><br /><p>家事とは、大変な労力であると、私は実感している。</p><br /><p>つまり、私は、毎日、家事をしている。</p><p>食べる物は、すべて、手作り。</p><p>外食は、ほとんどしない。</p><br /><p>男だてらで、そんな生活をしている。</p><p>勿論、家事が大好きな、男もいるだろう。</p><br /><p>まともに、家事をするとなると、それは、大事なのである。</p><p>家事は、キリがない。</p><br /><p>だから、手を抜く。</p><p>その、手の抜き方が問題である。</p><br /><p>部屋の掃除自体が、大変である。</p><p>手を抜いていると、一年ほど、物の移動がない場合もある。</p><br /><p>さて、私は、自分が食べる物には、手を抜きたくない。</p><p>だから、それは、大変なことになる。</p><br /><p>一日、二食である。</p><p>それでも、大変なのだ。</p><br /><p>おおよそ、一日置きに、ご飯を炊いている。</p><p>そして、おかずを作る。</p><br /><p>味噌汁も、かかさない。</p><p>魚を焼いたり、煮たり、揚げたりする。</p><p>肉も、そうだ。</p><br /><p>そして、野菜である。</p><p>漬物が大好きで、自分でも作る。</p><p>ところが、食べきれないのである。</p><br /><p>捨てることになる物を、作るのは、勇気がいる。</p><p>そこで、量を少なくする。</p><p>だが、量を少なくするという事が、また、大変なのである。</p><br /><p>それも、ある程度慣れて、今は、ほどほどに出来るようになった。</p><br /><p>まあ、こうして、また、死ぬまでの、暇を潰している。</p><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479632124</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479567821.html</link>
      <title>日々の言い分585</title>
      <pubDate>Sun, 17 Jan 2021 07:39:37 +0900</pubDate>
            <description>▼習近平の中国が展開した「マスク外交」を忘れるな和田です。日々凄い勢いで流れる情報の中で皆さん既に忘れてしまっているかも知れませんが、まさに顰蹙もの話題がありました。2019年、11月から中国武漢から始まった新型コロナウィルスの流行は、2020年になると数ヶ月で世界中に広がりました。未知のウィルスに世界はパニックになり、医療物資や医療崩壊を招き、物に溢れた先進国が一夜にして、マスクや防護服や消毒液などすら購入できない状況に変貌していったのでした。その原因が中国共産党統一戦線工..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
▼習近平の中国が展開した「マスク外交」を忘れるな
和田です。
日々凄い勢いで流れる情報の中で皆さん既に忘れてしまっているかも知れませんが、まさに顰蹙もの話題がありました。
2019年、11月から中国武漢から始まった新型コロナウィルスの流行は、2020年になると数ヶ月で世界中に広がりました。未知のウィルスに世界はパニックになり、医療物資や医療崩壊を招き、物に溢れた先進国が一夜にして、マスクや防護服や消毒液などすら購入できない状況に変貌していったのでした。
その原因が中国共産党統一戦線工作部です。
北京の動きは速く、2020年1月には習近平は即座に湖北省武漢市をロックダウン。そして、世界各地でマスクやPPE（個人防護器具）などを買い集め中国に送るよう号令をかけ、世界五大陸、数十カ所に散らばる中国人組織が動きました。
米下院情報特別委員会での昨年の証言によれば、動員可能な団体は米国だけでも250を超えています。
中国のメッセージングアプリ「微信（WeChat）」を活用したキャンペーンの規模、スピード、効果は並大抵でなく、災害支援活動を超え、これは事実上の工作活動でした。
名古屋では３日間でボランティアがマスク５２万枚を薬局で買い上げ、カナダのトロントにある中国商業会議所のトップは北京から戻り会員に協力を求め、100人近くをPEEの買い占めに動員しました。
アルゼンチンにある中国在外団体は、要請を受けて１週間以内に約2万5千枚のマスク中国を送りました。
中国政府の統計によれば、2月末までにはマスク20億枚を含む25億品、82億元（約1300億円）相当が統一戦線主導のキャンペーンにより中国本土に送り込まれていたのです。
これら事実は、中国国営の新華社通信が報じていることですが、これは数千の組織やソーシャルメディアグループを動員できるということを誇示する中国の公式発表です。
このような行動こそが、世界各国からどれだけ顰蹙を買うか、そういうことすらもはや理解できない・・・
これはまさしく、世界的戦略家である、エドワード・ルトワックが言うところのいわゆる「大国の自閉症」ということなのです。
昨年の2月、3月といえば、日本国内には、花粉症対策のためのマスクが大量にあったはずなのに、あっという間にマスク不足になりました。
あの時、中国人グループが薬局の開店にならび組織的に買い占め、中国の親戚に送っている、もしくは、国内転売しているという日本メディアでの報道も確かにありました。
彼ら在外中国人グループは、親戚や身内などではなく、北京のためにマスクやPEEを買い占め送っていたのです。それだけでなく、個人的にも、組織的にも、メルカリやヤフオク、アマゾンでも大量に転売して荒稼ぎもしていました。
中国人グループの暗躍によって、スーパーや薬局からはマスクが消え、国民のみならず、医療用マスクまで不足し、医療現場が深刻な事態になっている中、香川県は、県と市町の備蓄物質から「加油（がんばれ）陝西！」とダンボールに書いて人道的支援という美名の元、あたかも役人だけが自己満足をするかの如くマスク約2万７千枚を中国陝西省に送っています。さらに、兵庫県も2月10日、マスク約100万枚を友好提携している広東省と海南省に寄贈しました。
このように、地方自治体の公務員達によるポリシーなき安直・安易な友好は、マスク不足にあえぐ日本国民を地獄に落としました。
2020年の夏、東京都の小池知事は、知事選での小池支持をいち早く表明していた親中派二階幹事長の要請をうけて、東京都の税金で積み上げてきた資産である防護服を中国に送っています。
『週刊文春』によれば、二階幹事長はアリババ創業者ジャック・マーの依頼を受けて小池都知事へ要請したのものだったということです。二階幹事長が名誉理事長をつとめる「日本医療国際化推進機構」を通じて中国へ贈られました。かねてより、尖閣列島への領海侵犯を執拗に繰り返す中国に対して、特に何の抗議することもなく・・・
その後、3月に入り、当面の急場をしのぎ、中国国内に十分なマスクの備蓄を確認した中国共産党員であるジャック・マーがマスク１００万枚を日本に送ると発表しました。
ちなみに、それに対して、我が国の森まさこ法務大臣は「次に（ジャック・マーと）再会する時にしっかりと感謝を伝えたい。ありがとうジャック」と無邪気にTweetしていましたね・・・。
そろそろ皆さんも当時の状況を思い出したこと思いますが、あの時のマスクの世界的・組織的な買い占めは、中国共産党の「統一戦線工作部」によって行われたものです。
コロナを世界にばらまいたのは、故意であるか否か？は不明ですが、少なくとも、中国共産党は、世界中から組織的にマスクを買い占め、あろうことか、そのマスクを世界に販売したり、もしくは無償支援するという、恐るべき、そして恥ずべき「マスク外交」を行ったのです。
貸しをつくったついでに「世界は中国共産党に感謝しなければならない」という、いかにも中国らしい傲慢なメッセージまで付け加えて。
中国共産党の「統一戦線工作部」は、いつでも常に、世界中の在外中国人を動員する力があります。
そして、日本国内にも、中国側の要請に無自覚に対応してしまう為政者が大勢います。更に、日本の大多数の大手メディアは「日中記者協定」の手前なのかどうかは知りませんが、新華社通信が報じた中国の「公式発表」を無批判にそのまま垂れ流してしまい、（意図的なのか？無意識なのか？）結局、中国にとって都合の悪い情報が流れない…という状況になっていること。日本人は、こららのことを肝に命じておかねばなりません。
上記の書き込みから・・・いかにも、中国らしい行動である。呆れる。在日中国人には、本当に、気を付け、注意して見たい。彼らは、何をするのか、解らない。勿論、朝鮮人も、である。


<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>▼習近平の中国が展開した「マスク外交」を忘れるな</p><br /><p>和田です。</p><br /><p>日々凄い勢いで流れる情報の中で皆さん既に忘れてしまっているかも知れませんが、まさに顰蹙もの話題がありました。</p><br /><p>2019年、11月から中国武漢から始まった新型コロナウィルスの流行は、2020年になると</p><p>数ヶ月で世界中に広がりました。</p><p>未知のウィルスに世界はパニックになり、医療物資や医療崩壊を招き、物に溢れた先進国が一夜にして、マスクや防護服や消毒液などすら購入できない状況に変貌していったのでした。</p><br /><p>その原因が中国共産党統一戦線工作部です。</p><br /><p>北京の動きは速く、2020年1月には習近平は即座に湖北省武漢市をロックダウン。そして、世界各地でマスクやPPE（個人防護器具）などを買い集め中国に送るよう号令をかけ、世界五大陸、数十カ所に散らばる中国人組織が動きました。</p><br /><p>米下院情報特別委員会での昨年の証言によれば、動員可能な団体は米国だけでも250を超えています。</p><br /><p>中国のメッセージングアプリ「微信（WeChat）」を活用したキャンペーンの規模、スピード、効果は並大抵でなく、災害支援活動を超え、これは事実上の工作活動でした。</p><br /><p>名古屋では３日間でボランティアがマスク５２万枚を薬局で買い上げ、カナダのトロントにある中国商業会議所のトップは北京から戻り会員に協力を求め、100人近くをPEEの買い占めに動員しました。</p><br /><p>アルゼンチンにある中国在外団体は、要請を受けて１週間以内に約2万5千枚のマスク中国を送りました。</p><br /><p>中国政府の統計によれば、2月末までにはマスク20億枚を含む25億品、82億元（約1300億円）相当が統一戦線主導のキャンペーンにより中国本土に送り込まれていたのです。</p><br /><p>これら事実は、中国国営の新華社通信が報じていることですが、これは数千の組織やソーシャルメディアグループを動員できるということを誇示する中国の公式発表です。</p><br /><p>このような行動こそが、世界各国からどれだけ顰蹙を買うか、そういうことすらもはや理解できない・・・</p><br /><p>これはまさしく、世界的戦略家である、エドワード・ルトワックが言うところのいわゆる「大国の自閉症」ということなのです。</p><br /><p>昨年の2月、3月といえば、日本国内には、花粉症対策のためのマスクが大量にあったはずなのに、あっという間にマスク不足になりました。</p><br /><p>あの時、中国人グループが薬局の開店にならび組織的に買い占め、中国の親戚に送っている、</p><p>もしくは、国内転売しているという日本メディアでの報道も確かにありました。</p><br /><p>彼ら在外中国人グループは、親戚や身内などではなく、北京のためにマスクやPEEを買い占め送っていたのです。それだけでなく、個人的にも、組織的にも、メルカリやヤフオク、アマゾンでも大量に転売して荒稼ぎもしていました。</p><br /><p>中国人グループの暗躍によって、スーパーや薬局からはマスクが消え、国民のみならず、医療用マスクまで不足し、医療現場が深刻な事態になっている中、香川県は、県と市町の備蓄物質から「加油（がんばれ）陝西！」とダンボールに書いて人道的支援という美名の元、あたかも役人だけが自己満足をするかの如くマスク約2万７千枚を中国陝西省に送っています。</p><p>さらに、兵庫県も2月10日、マスク約100万枚を友好提携している広東省と海南省に寄贈しました。</p><br /><p>このように、地方自治体の公務員達によるポリシーなき安直・安易な友好は、マスク不足にあえぐ日本国民を地獄に落としました。</p><br /><p>2020年の夏、東京都の小池知事は、知事選での小池支持をいち早く表明していた親中派二階幹事長の要請をうけて、東京都の税金で積み上げてきた資産である防護服を中国に送っています。</p><br /><p>『週刊文春』によれば、二階幹事長はアリババ創業者ジャック・マーの依頼を受けて小池都知事へ要請したのものだったということです。</p><p>二階幹事長が名誉理事長をつとめる「日本医療国際化推進機構」を通じて中国へ贈られました。かねてより、尖閣列島への領海侵犯を執拗に繰り返す中国に対して、特に何の抗議することもなく・・・</p><br /><p>その後、3月に入り、当面の急場をしのぎ、中国国内に十分なマスクの備蓄を確認した</p><p>中国共産党員であるジャック・マーがマスク１００万枚を日本に送ると発表しました。</p><br /><p>ちなみに、それに対して、我が国の森まさこ法務大臣は「次に（ジャック・マーと）再会する時にしっかりと感謝を伝えたい。ありがとうジャック」と無邪気にTweetしていましたね・・・。</p><br /><p>そろそろ皆さんも当時の状況を思い出したこと思いますが、あの時のマスクの世界的・組織的な買い占めは、中国共産党の「統一戦線工作部」によって行われたものです。</p><br /><p>コロナを世界にばらまいたのは、故意であるか否か？は不明ですが、少なくとも、中国共産党は、世界中から組織的にマスクを買い占め、あろうことか、そのマスクを世界に販売したり、</p><p>もしくは無償支援するという、恐るべき、そして恥ずべき「マスク外交」を行ったのです。</p><br /><p>貸しをつくったついでに「世界は中国共産党に感謝しなければならない」という、いかにも中国らしい傲慢なメッセージまで付け加えて。</p><br /><p>中国共産党の「統一戦線工作部」は、いつでも常に、世界中の在外中国人を動員する力があります。</p><br /><p>そして、日本国内にも、中国側の要請に無自覚に対応してしまう為政者が大勢います。更に、日本の大多数の大手メディアは「日中記者協定」の手前なのかどうかは知りませんが、新華社通信が報じた中国の「公式発表」を無批判にそのまま垂れ流してしまい、（意図的なのか？無意識なのか？）結局、中国にとって都合の悪い情報が流れない…という状況になっていること。</p><p>日本人は、こららのことを肝に命じておかねばなりません。</p><br /><p>上記の書き込みから・・・</p><p>いかにも、中国らしい行動である。</p><p>呆れる。</p><p>在日中国人には、本当に、気を付け、注意して見たい。</p><p>彼らは、何をするのか、解らない。</p><p>勿論、朝鮮人も、である。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479567821</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479536029.html</link>
      <title>日々の言い分584</title>
      <pubDate>Fri, 15 Jan 2021 07:45:57 +0900</pubDate>
            <description>新型コロナと言うが・・・違う。武漢コロナである。中国が世界に向けて、核兵器を撃ったと同じだと、私は言う。何故、日本のマスコミは、そのようなことを言わないのか。そう、日本のマスコミは、中国の批判が出来ないと、決まっている。NHKでさえ、言わない。何せ、NHKの中には、中国の放送局が、二局入っている。だから、中国の国旗は、何度も、繰り返し流すが、日の丸は、中々でない。中国の侵略について、多くを言う人がいるが・・・日本は、すでに、その侵略を受けている。そして、相当に、深刻になってい..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
新型コロナと言うが・・・違う。
武漢コロナである。中国が世界に向けて、核兵器を撃ったと同じだと、私は言う。
何故、日本のマスコミは、そのようなことを言わないのか。
そう、日本のマスコミは、中国の批判が出来ないと、決まっている。NHKでさえ、言わない。何せ、NHKの中には、中国の放送局が、二局入っている。
だから、中国の国旗は、何度も、繰り返し流すが、日の丸は、中々でない。
中国の侵略について、多くを言う人がいるが・・・日本は、すでに、その侵略を受けている。そして、相当に、深刻になっている。
だが、日本人は、平和馬鹿と、サヨク系にやられて、気付かない。いや、気付いても、何もしない、出来ない。
ただ、黙って、見ている。つまり、そのうちに、収まると思っているのか・・・
危機感を持つ人たちが、多数いる。そして、メッセージを放つ。
さて、武漢コロナである。全く、青天の霹靂だった。
まさか、こんなことがあるなんて・・・業種に拘わらず、大変な被害である。
職業が変わる程の、衝撃である。つまり、既成の職業が、成り立たない。成り立たなくなる。
更に、今までの商売の方法が、無になる。
人に接することなく、品物を渡すサービスが、どんどん、出来ている。
これは、人間疎外の、何物でもない。
更に、人を集める、様々なイベントも、無くなる。私は、コンサートを主催しているが・・・
お客様は、激減である。いや、その前に、半年以上、中止になった。
準備をした、様々な、手数と、お金が、全く、台無しになった。給付金・・・そんなものでは、足りない。
私は、中国が始めた、戦争のただ中にいるという、実感である。
しかし、日本の国民は、ぼんやりとしている。政治家だけが、何やら、仕事をしている振りをしている。
感染防止という、耳障りの良い言葉に、毎日、政治家、例えば、普段は、見えない、知事たちが、マスコミに出て、何やら、言う。
そして、恐怖を煽る。
マスク、手洗い・・・そんなことは、当然のことだった。
特に、冬には、インフルエンザ予防のために、そのようにしていた。何も、今更、神経質になることはない。
それに、感染の死者数は、自殺する人より、少ない。
自殺の方が、問題である。
このように、銃で撃たれなくても、人が死ぬ。不特定多数であるから、戦争と同じである。
さて、中国に、物の言う、政治家がいるか・・・
日本のマスコミは、在日が支配している。宗主国の、中国の意向を、そのままにする。
何度も言う。日本の支配は、進んでいる。
そして、今度は、更に、その支配が明確にされる。
中国は、そのようにして、今まで、やってきた。国民の中国に対する、支持が低下していても、やられているのである。
そこには、政治家、官僚、経済界の中に、親中派がいるのではない。すでに、スパイになっているのだ。
金、つまり、賄賂、そして、ハニートラップに懸かり、身動き出来なくなった人たちである。
中国に出掛けたという人は、信用しないことだ。
言論統制も、勿論、日本には、ある。あり過ぎるほどある。
すでに、支配され、仕切られている。
さて、それでは、どうするか・・・
まず、すべきことは、捨てる事である。中国を捨てる。中国産のものを、買わない。
少しの抵抗を示すことである。
国民、一人ひとりが、目覚めて、中国排斥をすること。
在日に、心を許さないこと。
日本国民の、個人情報まで、集めている。これを、何処かで、止めなければならない。そのためには、中国関連の、様々なものに対して、兎に角、慎重に対処することだ。
心の中で、中国排斥を行うことが、一番の手。
別エッセイ、玉砕、くたばるぞ北海道、を参照のこと。


<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>新型コロナと言うが・・・</p><p>違う。</p><br /><p>武漢コロナである。</p><p>中国が世界に向けて、核兵器を撃ったと同じだと、私は言う。</p><br /><p>何故、日本のマスコミは、そのようなことを言わないのか。</p><br /><p>そう、日本のマスコミは、中国の批判が出来ないと、決まっている。</p><p>NHKでさえ、言わない。</p><p>何せ、NHKの中には、中国の放送局が、二局入っている。</p><br /><p>だから、中国の国旗は、何度も、繰り返し流すが、日の丸は、中々でない。</p><br /><p>中国の侵略について、多くを言う人がいるが・・・</p><p>日本は、すでに、その侵略を受けている。</p><p>そして、相当に、深刻になっている。</p><br /><p>だが、日本人は、平和馬鹿と、サヨク系にやられて、気付かない。いや、気付いても、何もしない、出来ない。</p><br /><p>ただ、黙って、見ている。</p><p>つまり、そのうちに、収まると思っているのか・・・</p><br /><p>危機感を持つ人たちが、多数いる。</p><p>そして、メッセージを放つ。</p><br /><p>さて、武漢コロナである。</p><p>全く、青天の霹靂だった。</p><br /><p>まさか、こんなことがあるなんて・・・</p><p>業種に拘わらず、大変な被害である。</p><br /><p>職業が変わる程の、衝撃である。</p><p>つまり、既成の職業が、成り立たない。成り立たなくなる。</p><br /><p>更に、今までの商売の方法が、無になる。</p><br /><p>人に接することなく、品物を渡すサービスが、どんどん、出来ている。</p><br /><p>これは、人間疎外の、何物でもない。</p><br /><p>更に、人を集める、様々なイベントも、無くなる。</p><p>私は、コンサートを主催しているが・・・</p><br /><p>お客様は、激減である。</p><p>いや、その前に、半年以上、中止になった。</p><br /><p>準備をした、様々な、手数と、お金が、全く、台無しになった。</p><p>給付金・・・</p><p>そんなものでは、足りない。</p><br /><p>私は、中国が始めた、戦争のただ中にいるという、実感である。</p><br /><p>しかし、日本の国民は、ぼんやりとしている。</p><p>政治家だけが、何やら、仕事をしている振りをしている。</p><br /><p>感染防止という、耳障りの良い言葉に、毎日、政治家、例えば、普段は、見えない、知事たちが、マスコミに出て、何やら、言う。</p><br /><p>そして、恐怖を煽る。</p><br /><p>マスク、手洗い・・・</p><p>そんなことは、当然のことだった。</p><br /><p>特に、冬には、インフルエンザ予防のために、そのようにしていた。</p><p>何も、今更、神経質になることはない。</p><br /><p>それに、感染の死者数は、自殺する人より、少ない。</p><br /><p>自殺の方が、問題である。</p><br /><p>このように、銃で撃たれなくても、人が死ぬ。</p><p>不特定多数であるから、戦争と同じである。</p><br /><p>さて、中国に、物の言う、政治家がいるか・・・</p><br /><p>日本のマスコミは、在日が支配している。</p><p>宗主国の、中国の意向を、そのままにする。</p><br /><p>何度も言う。</p><p>日本の支配は、進んでいる。</p><br /><p>そして、今度は、更に、その支配が明確にされる。</p><br /><p>中国は、そのようにして、今まで、やってきた。</p><p>国民の中国に対する、支持が低下していても、やられているのである。</p><br /><p>そこには、政治家、官僚、経済界の中に、親中派がいるのではない。</p><p>すでに、スパイになっているのだ。</p><br /><p>金、つまり、賄賂、そして、ハニートラップに懸かり、身動き出来なくなった人たちである。</p><br /><p>中国に出掛けたという人は、信用しないことだ。</p><br /><p>言論統制も、勿論、日本には、ある。</p><p>あり過ぎるほどある。</p><br /><p>すでに、支配され、仕切られている。</p><br /><p>さて、それでは、どうするか・・・</p><br /><p>まず、すべきことは、捨てる事である。</p><p>中国を捨てる。</p><p>中国産のものを、買わない。</p><br /><p>少しの抵抗を示すことである。</p><br /><p>国民、一人ひとりが、目覚めて、中国排斥をすること。</p><br /><p>在日に、心を許さないこと。</p><br /><p>日本国民の、個人情報まで、集めている。</p><p>これを、何処かで、止めなければならない。</p><p>そのためには、中国関連の、様々なものに対して、兎に角、慎重に対処することだ。</p><br /><p>心の中で、中国排斥を行うことが、一番の手。</p><br /><p>別エッセイ、玉砕、くたばるぞ北海道、を参照のこと。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479536029</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479500807.html</link>
      <title>日々の言い分583</title>
      <pubDate>Wed, 13 Jan 2021 07:00:47 +0900</pubDate>
            <description>別に私は日本がこのまま衰退して消えてしまうとか思っているわけではないし、何度も何度も国難をくぐり抜けては不死鳥のように蘇った日本が亡国の道を辿ると決めつけているわけでもない。それを望んでいるわけでもない。しかし、現状は限りなく暗い方向に転がり落ちているという点は強く認識している。少子高齢化が解決できない、イノベーションが起こせない、国民の一体感が保てない。こんな状態が続くのであれば、日本は苦境から脱することは絶対にない。国民の多くは「もっとひどい貧困」に落ち、政治経済も混乱す..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
別に私は日本がこのまま衰退して消えてしまうとか思っているわけではないし、何度も何度も国難をくぐり抜けては不死鳥のように蘇った日本が亡国の道を辿ると決めつけているわけでもない。それを望んでいるわけでもない。しかし、現状は限りなく暗い方向に転がり落ちているという点は強く認識している。少子高齢化が解決できない、イノベーションが起こせない、国民の一体感が保てない。こんな状態が続くのであれば、日本は苦境から脱することは絶対にない。国民の多くは「もっとひどい貧困」に落ち、政治経済も混乱する。国の混迷が止まらなくなると、それに乗じて諸外国からの侵略も本格化していくことになる。日本が侵略に抵抗できないと悟ったら、外部からの侵略も、内部からの侵略も、同時に行われていく。日本はこの30年成長できなかった。もう復活するためのチャンスはわずかしか残っていないのかもしれない。ところが、そんな亡国の瀬戸際にあるのに、まだ現状に気づかない日本人が多いということに、私は驚きを隠せない。私の脳裏に、かつて東南アジアで見てきた貧困が思い浮かぶ。あれは、日本の未来だったのだろうか。私は未来を旅していたのだろうか。
上記の書き込みから・・・
東南アジアの貧困。それは、私が、12年間に渡り、見て来たものだ。
追悼慰霊と、支援活動である。
そして、今、日本の貧困児童、生徒の支援をしていると、益々と、見えてくるものがある。
一体、日本は、どうしてしまったのか・・・
本当に、失われた20年、そして、30年になるのか・・・
実際、日本人の意識は、明らかに、混濁している。何処の国の人なのか・・・
あなたは、何処の民族なのか、と。
もう、日本という国の意識もない程、やられた様子である。
私は、今、辛うじて、万葉集の歌と、源氏物語に、救われていると思う。
私の、同一性である。
一見して、様々な分野で、新しい試みがなされているように見えるが、実際は、それは、一部のことである。
激しい侵略に晒されていることにも、気付かない。それは、国内外からのものだ。
何から、何まで。しかし、私は、もう、驚くことが無い。それは、当然のことなのである。
民族の意識、稀薄な人たちは、無国籍のようなものである。
更に、今だけ、自分だけ、良ければ、いいのである。
さて、問題は、何か・・・
武漢コロナによって、すべてが、明らかになった。政治経済、そして、国民性まで。
日本人とは、こんなに、弱いものだったのかと。
敗戦から、左翼思想、サヨクの人たちに、支配されて、最早、サヨク、保守も、何も、どうすることも出来ない、状態にある。
どうでも、いいことになっている。
実は、右翼も、左翼も、保守も、革新も、何でも、どうでもいいのである。
そして、経済が低迷すれば、それで、おしまい。
そう、東南アジアの貧困の状態が、日本にも、訪れるということは、絶望である。
豊かな日本・・・そんなものは、無かった。
ただ、一部の人たちが、築いたものだった。本当は、大半の国民が、貧しかったと、真実が解る。
この、武漢コロナによって、それが、明らかになったという事は、不幸だが、それで、善し。
少子高齢化・・・そんなもの、どうでも、いいことだ。
人口が少なくなる。それも、良いことだ。
怖れることはない。
ただ、怖れることは、怒れる人たちの心を、どうして、治めるかだ。
貧困は、心も、貧困に陥らせる。心が、貧困とは、それは、それは、恐ろしい。
東南アジアを旅して、同じ日本人に出会ったが・・・全く、哀れだった。それは、日本も同じように、貧困になることは、無いと、信じていた人たち。
貧困が、どんなものかを、知らない人たちである。
いよいよ、日本は、その本当の姿を見て、気付くことになる。
政治家、官僚の変節に気づかず、自分さえよければ、問題なかった。ところが・・・
大問題だったのだ。
一体、どうすれば、良いのか・・・全く、検討がつかない。
勿論、私は知る。何せ、私は日本を愛している。日本というものを、知っているからだ。
日本を愛せない人たちが、死ぬことで、解決される。更に、外国人を、今、少しの間、日本に入れないこと。
そして、在日に特に注意することである。決して、彼らに、迎合してはならない。
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>別に私は日本がこのまま衰退して消えてしまうとか思っているわけではないし、何度も何度も国難をくぐり抜けては不死鳥のように蘇った日本が亡国の道を辿ると決めつけているわけでもない。それを望んでいるわけでもない。</p><p>しかし、現状は限りなく暗い方向に転がり落ちているという点は強く認識している。</p><p>少子高齢化が解決できない、イノベーションが起こせない、国民の一体感が保てない。こんな状態が続くのであれば、日本は苦境から脱することは絶対にない。国民の多くは「もっとひどい貧困」に落ち、政治経済も混乱する。</p><p>国の混迷が止まらなくなると、それに乗じて諸外国からの侵略も本格化していくことになる。日本が侵略に抵抗できないと悟ったら、外部からの侵略も、内部からの侵略も、同時に行われていく。</p><p>日本はこの30年成長できなかった。もう復活するためのチャンスはわずかしか残っていないのかもしれない。ところが、そんな亡国の瀬戸際にあるのに、まだ現状に気づかない日本人が多いということに、私は驚きを隠せない。</p><p>私の脳裏に、かつて東南アジアで見てきた貧困が思い浮かぶ。あれは、日本の未来だったのだろうか。私は未来を旅していたのだろうか。</p><br /><p>上記の書き込みから・・・</p><br /><p>東南アジアの貧困。</p><p>それは、私が、12年間に渡り、見て来たものだ。</p><br /><p>追悼慰霊と、支援活動である。</p><br /><p>そして、今、日本の貧困児童、生徒の支援をしていると、益々と、見えてくるものがある。</p><br /><p>一体、日本は、どうしてしまったのか・・・</p><br /><p>本当に、失われた20年、そして、30年になるのか・・・</p><br /><p>実際、日本人の意識は、明らかに、混濁している。</p><p>何処の国の人なのか・・・</p><br /><p>あなたは、何処の民族なのか、と。</p><br /><p>もう、日本という国の意識もない程、やられた様子である。</p><br /><p>私は、今、辛うじて、万葉集の歌と、源氏物語に、救われていると思う。</p><br /><p>私の、同一性である。</p><br /><p>一見して、様々な分野で、新しい試みがなされているように見えるが、実際は、それは、一部のことである。</p><br /><p>激しい侵略に晒されていることにも、気付かない。</p><p>それは、国内外からのものだ。</p><br /><p>何から、何まで。</p><p>しかし、私は、もう、驚くことが無い。</p><p>それは、当然のことなのである。</p><br /><p>民族の意識、稀薄な人たちは、無国籍のようなものである。</p><br /><p>更に、今だけ、自分だけ、良ければ、いいのである。</p><br /><p>さて、問題は、何か・・・</p><br /><p>武漢コロナによって、すべてが、明らかになった。</p><p>政治経済、そして、国民性まで。</p><br /><p>日本人とは、こんなに、弱いものだったのかと。</p><br /><p>敗戦から、左翼思想、サヨクの人たちに、支配されて、最早、サヨク、保守も、何も、どうすることも出来ない、状態にある。</p><br /><p>どうでも、いいことになっている。</p><br /><p>実は、右翼も、左翼も、保守も、革新も、何でも、どうでもいいのである。</p><br /><p>そして、経済が低迷すれば、それで、おしまい。</p><br /><p>そう、東南アジアの貧困の状態が、日本にも、訪れるということは、絶望である。</p><br /><p>豊かな日本・・・</p><p>そんなものは、無かった。</p><br /><p>ただ、一部の人たちが、築いたものだった。</p><p>本当は、大半の国民が、貧しかったと、真実が解る。</p><br /><p>この、武漢コロナによって、それが、明らかになったという事は、不幸だが、それで、善し。</p><br /><p>少子高齢化・・・</p><p>そんなもの、どうでも、いいことだ。</p><br /><p>人口が少なくなる。</p><p>それも、良いことだ。</p><br /><p>怖れることはない。</p><br /><p>ただ、怖れることは、怒れる人たちの心を、どうして、治めるかだ。</p><br /><p>貧困は、心も、貧困に陥らせる。</p><p>心が、貧困とは、それは、それは、恐ろしい。</p><br /><p>東南アジアを旅して、同じ日本人に出会ったが・・・</p><p>全く、哀れだった。</p><p>それは、日本も同じように、貧困になることは、無いと、信じていた人たち。</p><br /><p>貧困が、どんなものかを、知らない人たちである。</p><br /><p>いよいよ、日本は、その本当の姿を見て、気付くことになる。</p><br /><p>政治家、官僚の変節に気づかず、自分さえよければ、問題なかった。</p><p>ところが・・・</p><br /><p>大問題だったのだ。</p><br /><p>一体、どうすれば、良いのか・・・</p><p>全く、検討がつかない。</p><br /><p>勿論、私は知る。</p><p>何せ、私は日本を愛している。</p><p>日本というものを、知っているからだ。</p><br /><p>日本を愛せない人たちが、死ぬことで、解決される。</p><p>更に、外国人を、今、少しの間、日本に入れないこと。</p><br /><p>そして、在日に特に注意することである。</p><p>決して、彼らに、迎合してはならない。</p><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
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                </item>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479467282.html</link>
      <title>日々の言い分582</title>
      <pubDate>Mon, 11 Jan 2021 07:14:16 +0900</pubDate>
            <description>こういう中国の非現実的な夢を、いかに現実路線に戻すかである。それは、中国の未来がいかに暗いものかを認識させることだ。今の中国は、「世界一の人口」で舞い上がっている。これが、「世界一の高齢人口国」になる。中国の輝きは、そこで終わりなのだ。医学誌『ランセット』に掲載された米ワシントン大学の新たな研究論文が注目を集めている。従来の人口統計が、世界中の医療や女性教育の継続的かつ将来的な向上を加味していない結果、人口推計を過大に計算していると主張しているもの。出生率の低下は、都市化に加..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
こういう中国の非現実的な夢を、いかに現実路線に戻すかである。それは、中国の未来がいかに暗いものかを認識させることだ。今の中国は、「世界一の人口」で舞い上がっている。これが、「世界一の高齢人口国」になる。中国の輝きは、そこで終わりなのだ。医学誌『ランセット』に掲載された米ワシントン大学の新たな研究論文が注目を集めている。従来の人口統計が、世界中の医療や女性教育の継続的かつ将来的な向上を加味していない結果、人口推計を過大に計算していると主張しているもの。出生率の低下は、都市化に加え、識字率や避妊に関する情報へのアクセスの向上と相関性がある、と指摘するのだ。以下のデータは、『ウォール・ストリート・ジャーナル』（7月29日付「<a href="https://jp.wsj.com/articles/SB11740086872541713480504586535500404781950">気候変動問題、活動家には不都合な予測</a>」）から引用した。米ワシントン大学の新人口推計によれば、2064年に世界人口は97億人でピークに達し、2100年には88億人に減少すると予測している。さらに、国連の教育と避妊具の使用に関する持続可能な開発目標（SDG）が全面的に達成されれば、2100年には62億9,000万人にまで減少する可能性もあるとしている。これは国連の現行予測の下限を33％、現在の地球人口を約15億人それぞれ下回る水準だという。ワシントン大学の予測によると2100年、中国の人口は48％減の7億3,200万人となり、世界の人口順位でインドとナイジェリアに次ぐ3位に後退する。日本や韓国、イタリア、ポルトガル、スペインをはじめとする23カ国・地域の人口は、ピーク時から50％以上減少する見通しだ。米国は3億3,600万人と現在より若干増える程度で4位に下がる見通し。これは継続的な移民の流入が出生率の低下を補うとみられるためだ。2100年、中国は人口半減で財政破綻するここで、整理しておこう。2100年の中国人口は7.32億人。世界の人口順位でインドとナイジェリアに次ぐ3位に。米国は、3億3,600万人と現在より若干増える程度。順位は4位に下がる。この米中の2100年人口推計を見れば、中国は大きな傷を、米国は無傷で迎えられるのだ。人口推計によれば、2100年の中国人口は48％減である。これは、財政破綻を意味する。膨大な軍事費負担に加え、人口超高齢化に伴う年金や社会福祉負担が急増する。さらに現在の過剰債務負担をすべて背負い込む。人口順位は3位。1位インドの下位に付く。もはや、中国に、中印国境紛争をしでかす余力はなくなっているだろう。「中華再興の夢」は完全に萎んでいるはずだ。
上記の書き込みから・・・
物の見方は、色々ある。中国に対する、見方も、多数あるだろう。
中国寄りに見ると言う人もいる。また、その逆も、である。
さて、私は、中国の軍事力を見る。軍事力は、外交の力、外交力になる。
暴力で、望む方へと、導く様子である。
その大半は、侵略である。それは、すでに、世界中で、広がっている。
つい先ごろも、小国ブータン領内に建物を建てたという。つまり、侵略である。
ブータンには、以前から、人民解放軍が入り、やりたい放題だった。資源は漁るは、傍若無人に、好き放題である。これも、軍事力のなせる業である。
勿論、インドが立ちはだかるが・・・
アジア全域、アフリカなど、勝手気ままに、金をばら撒き、そして、その領土を、借りるといいつつ、我が物にする。
彼らは、国境という概念が無い様子である。
何処でも、我が物である。
そして、自国の環境は、滅茶苦茶。自然災害も相まって、食料にも、困るはずである。いや、すでに、困っている。
上記の書き込みでは、人口減少で、経済は、壊滅するというが・・・それなら、日本も、そうである。
だが、人口減少が、世界を救うとは、誰も言わない。世界の人口は、減る。
そのように、動いている。それが、現実である。いつまでも、膨張することはない。
つまり、必ず、変化してゆくのだ。その、変化について行けるか、否かである。
中国だけの問題はではない。
ただし、中国、特に、漢民族は、それまでも、国造りとして、まともなものではなかった。絶えず、人民を虐殺して、その数は、膨大である。
一部の人間を除いて、その他は、人間ではない扱いは、お手の物である。
その、民族の、性格を見抜く事で、その先が、見える。
侵略の手は、日本にも、延びているが・・・それも、中断せざるを得ない、状態になる。
勿論、慎重に、その中国の手口を見ているべきだが・・・日本の中には、中国に協力するという、馬鹿者も多い。
金である。すべてを、金で換算する者たちが、そのように、行為する。いずれは、破綻するが・・・
それを、私は、見ている。日本は、必ず、立ち止まり、気付いて、伝統の復活がある。それは、日本人の、精神と、心の、復活である。それが、見えて来た感がする。


<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>こういう中国の非現実的な夢を、いかに現実路線に戻すかである。</p><p>それは、中国の未来がいかに暗いものかを認識させることだ。今の中国は、「世界一の人口」で舞い上がっている。これが、「世界一の高齢人口国」になる。中国の輝きは、そこで終わりなのだ。</p><p>医学誌『ランセット』に掲載された米ワシントン大学の新たな研究論文が注目を集めている。従来の人口統計が、世界中の医療や女性教育の継続的かつ将来的な向上を加味していない結果、人口推計を過大に計算していると主張しているもの。出生率の低下は、都市化に加え、識字率や避妊に関する情報へのアクセスの向上と相関性がある、と指摘するのだ。</p><p>以下のデータは、『ウォール・ストリート・ジャーナル』（7月29日付「<span><a href="https://jp.wsj.com/articles/SB11740086872541713480504586535500404781950">気候変動問題、活動家には不都合な予測</a></span>」）から引用した。</p><p>米ワシントン大学の新人口推計によれば、2064年に世界人口は97億人でピークに達し、2100年には88億人に減少すると予測している。さらに、国連の教育と避妊具の使用に関する持続可能な開発目標（SDG）が全面的に達成されれば、2100年には62億9,000万人にまで減少する可能性もあるとしている。これは国連の現行予測の下限を33％、現在の地球人口を約15億人それぞれ下回る水準だという。</p><p>ワシントン大学の予測によると2100年、中国の人口は48％減の7億3,200万人となり、世界の人口順位でインドとナイジェリアに次ぐ3位に後退する。日本や韓国、イタリア、ポルトガル、スペインをはじめとする23カ国・地域の人口は、ピーク時から50％以上減少する見通しだ。米国は3億3,600万人と現在より若干増える程度で4位に下がる見通し。これは継続的な移民の流入が出生率の低下を補うとみられるためだ。</p><h3><strong>2100年、中国は人口半減で財政破綻する</strong></h3><p>ここで、整理しておこう。</p><p>2100年の中国人口は7.32億人。世界の人口順位でインドとナイジェリアに次ぐ3位に。米国は、3億3,600万人と現在より若干増える程度。順位は4位に下がる。この米中の2100年人口推計を見れば、中国は大きな傷を、米国は無傷で迎えられるのだ。</p><p>人口推計によれば、2100年の中国人口は48％減である。これは、財政破綻を意味する。膨大な軍事費負担に加え、人口超高齢化に伴う年金や社会福祉負担が急増する。さらに現在の過剰債務負担をすべて背負い込む。人口順位は3位。1位インドの下位に付く。</p><p>もはや、中国に、中印国境紛争をしでかす余力はなくなっているだろう。「中華再興の夢」は完全に萎んでいるはずだ。</p><br /><p>上記の書き込みから・・・</p><br /><p>物の見方は、色々ある。</p><p>中国に対する、見方も、多数あるだろう。</p><br /><p>中国寄りに見ると言う人もいる。</p><p>また、その逆も、である。</p><br /><p>さて、私は、中国の軍事力を見る。</p><p>軍事力は、外交の力、外交力になる。</p><br /><p>暴力で、望む方へと、導く様子である。</p><br /><p>その大半は、侵略である。</p><p>それは、すでに、世界中で、広がっている。</p><br /><p>つい先ごろも、小国ブータン領内に建物を建てたという。</p><p>つまり、侵略である。</p><br /><p>ブータンには、以前から、人民解放軍が入り、やりたい放題だった。</p><p>資源は漁るは、傍若無人に、好き放題である。</p><p>これも、軍事力のなせる業である。</p><br /><p>勿論、インドが立ちはだかるが・・・</p><br /><p>アジア全域、アフリカなど、勝手気ままに、金をばら撒き、そして、その領土を、借りるといいつつ、我が物にする。</p><br /><p>彼らは、国境という概念が無い様子である。</p><br /><p>何処でも、我が物である。</p><br /><p>そして、自国の環境は、滅茶苦茶。</p><p>自然災害も相まって、食料にも、困るはずである。</p><p>いや、すでに、困っている。</p><br /><p>上記の書き込みでは、人口減少で、経済は、壊滅するというが・・・</p><p>それなら、日本も、そうである。</p><br /><p>だが、人口減少が、世界を救うとは、誰も言わない。</p><p>世界の人口は、減る。</p><br /><p>そのように、動いている。</p><p>それが、現実である。</p><p>いつまでも、膨張することはない。</p><br /><p>つまり、必ず、変化してゆくのだ。</p><p>その、変化について行けるか、否かである。</p><br /><p>中国だけの問題はではない。</p><br /><p>ただし、中国、特に、漢民族は、それまでも、国造りとして、まともなものではなかった。</p><p>絶えず、人民を虐殺して、その数は、膨大である。</p><br /><p>一部の人間を除いて、その他は、人間ではない扱いは、お手の物である。</p><br /><p>その、民族の、性格を見抜く事で、その先が、見える。</p><br /><p>侵略の手は、日本にも、延びているが・・・</p><p>それも、中断せざるを得ない、状態になる。</p><br /><p>勿論、慎重に、その中国の手口を見ているべきだが・・・</p><p>日本の中には、中国に協力するという、馬鹿者も多い。</p><br /><p>金である。</p><p>すべてを、金で換算する者たちが、そのように、行為する。</p><p>いずれは、破綻するが・・・</p><br /><p>それを、私は、見ている。</p><p>日本は、必ず、立ち止まり、気付いて、伝統の復活がある。</p><p>それは、日本人の、精神と、心の、復活である。</p><p>それが、見えて来た感がする。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479467282</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479418965.html</link>
      <title>国を愛して何が悪い267</title>
      <pubDate>Fri, 08 Jan 2021 07:16:19 +0900</pubDate>
            <description>現代でも怨霊や祟りという観念は息づいており、時にオカルトブームや都市伝説などのかたちではやりすたりを繰り返しているが、中世の怨霊と現代のそれとのあいだには決定的な違いがある。それは、怨霊の祟りの対象となるのが恨みをもたれた個人やその一族だけではなく、社会全体に不慮の事態をもたらした点である。早島大祐現代言われる、御霊とは、個人的な恨みを晴らすという、考え方が多数である。だが、室町期以前は、違う。怨霊は、社会全体に、大きな影響を与える、疫病、天変地異をもたらすと考えられていた。..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
現代でも怨霊や祟りという観念は息づいており、時にオカルトブームや都市伝説などのかたちではやりすたりを繰り返しているが、中世の怨霊と現代のそれとのあいだには決定的な違いがある。それは、怨霊の祟りの対象となるのが恨みをもたれた個人やその一族だけではなく、社会全体に不慮の事態をもたらした点である。早島大祐
現代言われる、御霊とは、個人的な恨みを晴らすという、考え方が多数である。だが、室町期以前は、違う。
怨霊は、社会全体に、大きな影響を与える、疫病、天変地異をもたらすと考えられていた。
だから、御霊信仰、ごりょうしんこう、と、呼ばれた。祟り神を、恐れるという。
日本は、亡くなると、神になる。だから、祟り神、となるのだ。
基本的に、日本には、悪霊、悪魔という存在は、無い。
すべては、神なのである。荒ぶる神、である。
怨霊信仰で、有名なのは、菅原道真である。北野天満宮は、それである。道真を神として、祀る。
その、道真の怨霊は、社会全体を、恐怖に陥れたと言われる。
そこで、足利尊氏、その弟である、直義の兄弟は、後醍醐天皇の、怨霊を恐れた。そこで、それを鎮めるために建立された寺院が、暦応寺、後に、天龍寺と改称される、寺だった。
これについては、以前も、精神史の中で触れている。
この、天龍寺に関しては、一筋縄ではいかなかったが・・・それについては、主旨ではないので、省略する。いずれにしても、その建立が遅れたが、実際に、建立されたという、事実である。
ただ、一つだけ、財源に困ったが、その方法として、造営船の派遣である。当時の中国、元への貿易船である。
鎌倉時代に、寺社造営船がいくつかあったが、その幕府滅亡後は、国内情勢の混乱と、元統三年、1335年、元の港湾都市で日本商人が海賊行為を働いた、倭寇のため、倭船来航が禁止されていて、10年以上も、元へは派遣されていなかった。
朝廷は、派遣に関しては、反対意見が多く、否定的だった。議論の趨勢は、朝廷の強い反対により、派遣否定と傾いていたが、これを押し切ったのが、夢想疎石であった。
夢想疎石は、禅僧である。
それにより、暦応四年、足利直義の署名で、来秋に、二隻を派遣することが、決定した。
つまり、禅僧が、当時の世相を動かしたと言う、事実である。僧侶が、そのような力を持っていたということを言う。
鎌倉時代も、僧侶により、建長寺船という、造営船を出していたと言う、事実を重く見たい。
その名称は、天龍寺船派遣である。
それほどまでに、寺院が力を持つと言う事態を、私は重く見る。
ただし、当時、元から明と、大陸の朝廷が代わり、室町幕府の財政には、大きな影響を与えることは無かったのである。
更に、大陸では、1350年代は、反乱、紅巾軍の蜂起などで、内乱状態に陥っていた。
さて、もう一つ、私が見るのは、公武関係である。
天龍寺に本尊として、釈迦三尊像が置かれたが、それを行うのは、朝廷、寺社であり、幕府は全く、関与出来なかったということである。
幕府は、建物という、ハードな部分は造れても、そのソフトに当たる、仏像や、その開眼供養などの作法は、蓄積がなく、朝廷の力を必要としたこと。
以後、朝廷と寺社そして、幕府との関係が、大きな課題となってゆく。
ここで、まとめると、当時は、朝廷、寺社、そして、幕府という、三つの集団が存在したことである。
本来、死者の鎮魂の作法は、朝廷、寺社により、成り立っていた。それが、室町幕府は、鎮魂政策を行ったと言うことが、新しい。
最初に挙げられるのは、有名な、安国寺の、利生塔の建立である。当初は、建武政権樹立以来の戦没者追悼目的だったが、暦応二年、後醍醐天皇の崩御から、それが大きく推進された。
同年、等持院で、後醍醐天皇の、百箇日供養の、曼荼羅供が行われ、貞和仁、1346年には、石塔八万四千基が建立されている。
更に、康永三年、1344年、貞和二年、1346年には、殺生禁断令が出されている。
その理由は、戦没者供養のためである。幕府が、そのような、鎮魂政策を行うという、不思議さである。
ここに、私は、室町幕府が、他の幕府とは異なる性質を持つものだと、言う。
それ例外の幕府で、そのようなことをしたことはなかった。勿論、将軍が個人的に供養するという、行為は、多々あったが。
足利尊氏の信仰深さと、言うべきなのか・・・精神史の際には、確かに、そのような分析をした。
ここには、書かないが、多々、大々的に供養祭を行っている。
それ以前の、内乱の激しさと、空しさが、尊氏を、そのように、導いたのか・・・あまりにも、内乱の様が、激しく、人生観までを、左右するほどの、形相だったことは、精神史の際に書いたが。
しかし、その後に来る、戦国時代もまた、内乱であり、内戦の有様である。だが、そこで、室町期のように、供養祭など、聞いたこともない。
これが、精神史から抜けて、室町期を見る必要を感じた、一つである。




<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>現代でも怨霊や祟りという観念は息づいており、時にオカルトブームや都市伝説などのかたちではやりすたりを繰り返しているが、中世の怨霊と現代のそれとのあいだには決定的な違いがある。それは、怨霊の祟りの対象となるのが恨みをもたれた個人やその一族だけではなく、社会全体に不慮の事態をもたらした点である。</p><p>早島大祐</p><br /><p>現代言われる、御霊とは、個人的な恨みを晴らすという、考え方が多数である。だが、室町期以前は、違う。</p><br /><p>怨霊は、社会全体に、大きな影響を与える、疫病、天変地異をもたらすと考えられていた。</p><br /><p>だから、御霊信仰、ごりょうしんこう、と、呼ばれた。</p><p>祟り神を、恐れるという。</p><br /><p>日本は、亡くなると、神になる。</p><p>だから、祟り神、となるのだ。</p><br /><p>基本的に、日本には、悪霊、悪魔という存在は、無い。</p><br /><p>すべては、神なのである。</p><p>荒ぶる神、である。</p><br /><p>怨霊信仰で、有名なのは、菅原道真である。</p><p>北野天満宮は、それである。</p><p>道真を神として、祀る。</p><br /><p>その、道真の怨霊は、社会全体を、恐怖に陥れたと言われる。</p><br /><p>そこで、足利尊氏、その弟である、直義の兄弟は、後醍醐天皇の、怨霊を恐れた。</p><p>そこで、それを鎮めるために建立された寺院が、暦応寺、後に、天龍寺と改称される、寺だった。</p><br /><p>これについては、以前も、精神史の中で触れている。</p><br /><p>この、天龍寺に関しては、一筋縄ではいかなかったが・・・</p><p>それについては、主旨ではないので、省略する。</p><p>いずれにしても、その建立が遅れたが、実際に、建立されたという、事実である。</p><br /><p>ただ、一つだけ、財源に困ったが、その方法として、造営船の派遣である。</p><p>当時の中国、元への貿易船である。</p><br /><p>鎌倉時代に、寺社造営船がいくつかあったが、その幕府滅亡後は、国内情勢の混乱と、元統三年、1335年、元の港湾都市で日本商人が海賊行為を働いた、倭寇のため、倭船来航が禁止されていて、10年以上も、元へは派遣されていなかった。</p><br /><p>朝廷は、派遣に関しては、反対意見が多く、否定的だった。</p><p>議論の趨勢は、朝廷の強い反対により、派遣否定と傾いていたが、これを押し切ったのが、夢想疎石であった。</p><br /><p>夢想疎石は、禅僧である。</p><br /><p>それにより、暦応四年、足利直義の署名で、来秋に、二隻を派遣することが、決定した。</p><br /><p>つまり、禅僧が、当時の世相を動かしたと言う、事実である。</p><p>僧侶が、そのような力を持っていたということを言う。</p><br /><p>鎌倉時代も、僧侶により、建長寺船という、造営船を出していたと言う、事実を重く見たい。</p><br /><p>その名称は、天龍寺船派遣である。</p><br /><p>それほどまでに、寺院が力を持つと言う事態を、私は重く見る。</p><br /><p>ただし、当時、元から明と、大陸の朝廷が代わり、室町幕府の財政には、大きな影響を与えることは無かったのである。</p><br /><p>更に、大陸では、1350年代は、反乱、紅巾軍の蜂起などで、内乱状態に陥っていた。</p><br /><p>さて、もう一つ、私が見るのは、公武関係である。</p><br /><p>天龍寺に本尊として、釈迦三尊像が置かれたが、それを行うのは、朝廷、寺社であり、幕府は全く、関与出来なかったということである。</p><br /><p>幕府は、建物という、ハードな部分は造れても、そのソフトに当たる、仏像や、その開眼供養などの作法は、蓄積がなく、朝廷の力を必要としたこと。</p><br /><p>以後、朝廷と寺社そして、幕府との関係が、大きな課題となってゆく。</p><br /><p>ここで、まとめると、当時は、朝廷、寺社、そして、幕府という、三つの集団が存在したことである。</p><br /><p>本来、死者の鎮魂の作法は、朝廷、寺社により、成り立っていた。</p><p>それが、室町幕府は、鎮魂政策を行ったと言うことが、新しい。</p><br /><p>最初に挙げられるのは、有名な、安国寺の、利生塔の建立である。</p><p>当初は、建武政権樹立以来の戦没者追悼目的だったが、暦応二年、後醍醐天皇の崩御から、それが大きく推進された。</p><br /><p>同年、等持院で、後醍醐天皇の、百箇日供養の、曼荼羅供が行われ、貞和仁、1346年には、石塔八万四千基が建立されている。</p><br /><p>更に、康永三年、1344年、貞和二年、1346年には、殺生禁断令が出されている。</p><br /><p>その理由は、戦没者供養のためである。</p><p>幕府が、そのような、鎮魂政策を行うという、不思議さである。</p><br /><p>ここに、私は、室町幕府が、他の幕府とは異なる性質を持つものだと、言う。</p><br /><p>それ例外の幕府で、そのようなことをしたことはなかった。</p><p>勿論、将軍が個人的に供養するという、行為は、多々あったが。</p><br /><p>足利尊氏の信仰深さと、言うべきなのか・・・</p><p>精神史の際には、確かに、そのような分析をした。</p><br /><p>ここには、書かないが、多々、大々的に供養祭を行っている。</p><br /><p>それ以前の、内乱の激しさと、空しさが、尊氏を、そのように、導いたのか・・・</p><p>あまりにも、内乱の様が、激しく、人生観までを、左右するほどの、形相だったことは、精神史の際に書いたが。</p><br /><p>しかし、その後に来る、戦国時代もまた、内乱であり、内戦の有様である。</p><p>だが、そこで、室町期のように、供養祭など、聞いたこともない。</p><br /><p>これが、精神史から抜けて、室町期を見る必要を感じた、一つである。</p><br /><br /><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>国を愛して何が悪い7</category>
      <author>木村天山３</author>
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                </item>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479386079.html</link>
      <title>国を愛して何が悪い266</title>
      <pubDate>Wed, 06 Jan 2021 07:54:05 +0900</pubDate>
            <description>京都に進駐した、足利尊氏の軍勢の有様から、再度、見ることにする。それは、戦後の混乱を立て直すという、作業から、始まる。足利尊氏は、後醍醐天皇を追放した直後の、建武三年、1336年に、後の基本的法令となる、建武式目、を作成した。その内容については、早島大祐氏の、室町幕府論、から紹介する。内容は、おおよそ、三つに分けられる。の倹約令から顕著に読み取れる、道徳的項目である。倹約、飲酒の禁止、礼節などである。二番目が、治安維持に関する項目で、狼藉停止、空き地の返付、土倉「金融業」の興..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
京都に進駐した、足利尊氏の軍勢の有様から、再度、見ることにする。
それは、戦後の混乱を立て直すという、作業から、始まる。
足利尊氏は、後醍醐天皇を追放した直後の、建武三年、1336年に、後の基本的法令となる、建武式目、を作成した。
その内容については、早島大祐氏の、室町幕府論、から紹介する。
内容は、おおよそ、三つに分けられる。
の倹約令から顕著に読み取れる、道徳的項目である。倹約、飲酒の禁止、礼節などである。
二番目が、治安維持に関する項目で、狼藉停止、空き地の返付、土倉「金融業」の興行など。
そして、三つ目が、政治倫理に関わる項目で、政治口入の禁止、公人＝官僚や近習の引き締め、進物の禁止、褒美の基準、訴訟のあり方などである。
まさに、現代を見るようである。と、共に、呆れるのである。いまだに、室町期から、抜け切れれていないという、状況である。
これ以上、詮索しない。
法令が出されていてた時、幕府は、後醍醐天皇を捕らえていたが、12月、吉野へと逃げられている。
後に、これは、幕府の大きな禍根になり、畿内の南方に、後醍醐の軍勢が勢力を残したということで、足利軍は、京都から離れられないことになった。
結局、幕府は、軍使政権的な性格を持ったまま、京都に幕府を開くことになる。
それでは、その軍事政権とは、何かである。
戦闘を行い、治安を維持するということだけではない。注目すべきは、その中に、戦乱による、死者の追悼慰霊を行うということである。
さて、現代は、どうか・・・先の大戦の、戦没者の追悼慰霊を、まともに、行っているのかである。
戦死者の、113万人の遺骨も、未だに、取集していない状態は、追悼慰霊もなにも、あったものではない。
つまり、室町幕府より、悪いのである。
大東亜戦争、第二次世界大戦後、今年で、76年を迎える。だが、何一つ、それからの状態は、変わらない。
政権担当の政党も、全くと言っていいほど、追悼慰霊は、無視である。形ばかりの、慰霊祭は、8月15日に、行われるが・・・
何せ、反日に染まり、日の丸から、君が代のも国歌まで、嫌う風潮である。更に、国旗を掲げると、右翼といわれる、ザマである。
私など、戦没者追悼慰霊の儀を執り行う、と言えば、極右と言われる、呆れた、国民に、成り下がった。
何処の国に、戦没者の追悼慰霊を無視する、国民がいるのか・・・是非、彼らに、聞きたいものである。
更に、戦地に出掛けると、現地の人に言われることは、日本人は、ここに来ても、慰霊碑に対して、頭を下げることも、手を合わせることもしないと、軽蔑されるほどだ。
こんな、国民に、誰がした・・・GHQか・・・そうだ、GHQのせいにすると、楽だ。
洗脳された、と言えば、楽である。
そして、極め付けは、やれる人は、やっている、という言葉である。呆れる。やれる人とは、遺族だろう。
こんな、国に、国民に、誰がした。
こんな女に誰がした、という歌が、戦後、歌われたが・・・米軍兵士に、体を売る女の歌である。
私は言う。米軍、アメリカに、体を売った、国民である。これは、また、呆れる。
さて、追悼慰霊を行うといっても、室町幕府は、自軍の戦没者だけではない。敵軍の死者も、怨霊ということで、供養したとある。
敵を怨霊とは、当時の、御霊信仰、ごりょうしんこう、である。御霊とは、怨霊である。
だから、後醍醐天皇が、8月16日に、崩御したという知らせを受けて、幕府方は、恐怖に震えた、のである。
これが、まともな感覚という。今は、幽霊など・・・そんなもの・・・と言う人がいるだろう。
が、人が死ねば、霊になる。当然、怨霊にもなる。
怨霊に憑かれると、どんなことになるのかは、当事者しか、解らない。その、恐怖は、察して、余りある。
そんなものは、信じないと言うも、科学万能信者が、怨霊に祟られたことがあった。そいつは、糞、小便を垂れ流した。
勿論、私は無視した。
自業自得が、この世の習い、2500年前に、仏陀が言ったことである。当然のことだ。
自我の強い者ほど、糞まみれになる。
そんな者を、気の毒だとは、思わない。
それが、死ぬと、怨霊以下の存在になる。らしい・・・
<a></a>

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<div><p>京都に進駐した、足利尊氏の軍勢の有様から、再度、見ることにする。</p><br /><p>それは、戦後の混乱を立て直すという、作業から、始まる。</p><br /><p>足利尊氏は、後醍醐天皇を追放した直後の、建武三年、1336年に、後の基本的法令となる、建武式目、を作成した。</p><br /><p>その内容については、早島大祐氏の、室町幕府論、から紹介する。</p><br /><p>内容は、おおよそ、三つに分けられる。</p><br /><ul><li>の倹約令から顕著に読み取れる、道徳的項目である。</li></ul><p>倹約、飲酒の禁止、礼節などである。</p><br /><p>二番目が、治安維持に関する項目で、狼藉停止、空き地の返付、土倉「金融業」の興行など。</p><br /><p>そして、三つ目が、政治倫理に関わる項目で、政治口入の禁止、公人＝官僚や近習の引き締め、進物の禁止、褒美の基準、訴訟のあり方などである。</p><br /><p>まさに、現代を見るようである。</p><p>と、共に、呆れるのである。</p><p>いまだに、室町期から、抜け切れれていないという、状況である。</p><br /><p>これ以上、詮索しない。</p><br /><p>法令が出されていてた時、幕府は、後醍醐天皇を捕らえていたが、12月、吉野へと逃げられている。</p><br /><p>後に、これは、幕府の大きな禍根になり、畿内の南方に、後醍醐の軍勢が勢力を残したということで、足利軍は、京都から離れられないことになった。</p><br /><p>結局、幕府は、軍使政権的な性格を持ったまま、京都に幕府を開くことになる。</p><br /><p>それでは、その軍事政権とは、何かである。</p><br /><p>戦闘を行い、治安を維持するということだけではない。</p><p>注目すべきは、その中に、戦乱による、死者の追悼慰霊を行うということである。</p><br /><p>さて、現代は、どうか・・・</p><p>先の大戦の、戦没者の追悼慰霊を、まともに、行っているのかである。</p><br /><p>戦死者の、113万人の遺骨も、未だに、取集していない状態は、追悼慰霊もなにも、あったものではない。</p><br /><p>つまり、室町幕府より、悪いのである。</p><br /><p>大東亜戦争、第二次世界大戦後、今年で、76年を迎える。</p><p>だが、何一つ、それからの状態は、変わらない。</p><br /><p>政権担当の政党も、全くと言っていいほど、追悼慰霊は、無視である。</p><p>形ばかりの、慰霊祭は、8月15日に、行われるが・・・</p><br /><p>何せ、反日に染まり、日の丸から、君が代のも国歌まで、嫌う風潮である。</p><p>更に、国旗を掲げると、右翼といわれる、ザマである。</p><br /><p>私など、戦没者追悼慰霊の儀を執り行う、と言えば、極右と言われる、呆れた、国民に、成り下がった。</p><br /><p>何処の国に、戦没者の追悼慰霊を無視する、国民がいるのか・・・</p><p>是非、彼らに、聞きたいものである。</p><br /><p>更に、戦地に出掛けると、現地の人に言われることは、日本人は、ここに来ても、慰霊碑に対して、頭を下げることも、手を合わせることもしないと、軽蔑されるほどだ。</p><br /><p>こんな、国民に、誰がした・・・</p><p>GHQか・・・</p><p>そうだ、GHQのせいにすると、楽だ。</p><br /><p>洗脳された、と言えば、楽である。</p><br /><p>そして、極め付けは、やれる人は、やっている、という言葉である。</p><p>呆れる。</p><p>やれる人とは、遺族だろう。</p><br /><p>こんな、国に、国民に、誰がした。</p><br /><p>こんな女に誰がした、という歌が、戦後、歌われたが・・・</p><p>米軍兵士に、体を売る女の歌である。</p><br /><p>私は言う。</p><p>米軍、アメリカに、体を売った、国民である。</p><p>これは、また、呆れる。</p><br /><p>さて、追悼慰霊を行うといっても、室町幕府は、自軍の戦没者だけではない。</p><p>敵軍の死者も、怨霊ということで、供養したとある。</p><br /><p>敵を怨霊とは、当時の、御霊信仰、ごりょうしんこう、である。</p><p>御霊とは、怨霊である。</p><br /><p>だから、後醍醐天皇が、8月16日に、崩御したという知らせを受けて、幕府方は、恐怖に震えた、のである。</p><br /><p>これが、まともな感覚という。</p><p>今は、幽霊など・・・そんなもの・・・と言う人がいるだろう。</p><br /><p>が、人が死ねば、霊になる。</p><p>当然、怨霊にもなる。</p><br /><p>怨霊に憑かれると、どんなことになるのかは、当事者しか、解らない。</p><p>その、恐怖は、察して、余りある。</p><br /><p>そんなものは、信じないと言うも、科学万能信者が、怨霊に祟られたことがあった。</p><p>そいつは、糞、小便を垂れ流した。</p><br /><p>勿論、私は無視した。</p><br /><p>自業自得が、この世の習い、2500年前に、仏陀が言ったことである。</p><p>当然のことだ。</p><br /><p>自我の強い者ほど、糞まみれになる。</p><br /><p>そんな者を、気の毒だとは、思わない。</p><br /><p>それが、死ぬと、怨霊以下の存在になる。</p><p>らしい・・・</p><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>国を愛して何が悪い7</category>
      <author>木村天山３</author>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479352116.html</link>
      <title>国を愛して何が悪い265</title>
      <pubDate>Mon, 04 Jan 2021 07:27:20 +0900</pubDate>
            <description>室町時代は、現代の商品経済社会の、始期であるという、事実には、驚く。そして、それまでの、身分制度が、根底から、揺らいだ時期でもあるとの、指摘である。室町時代は、古いものと、新しいものとが、交錯して、無秩序に見える。が、それが、他の時代との、違いである。漠然としている、時代性である。だから、見えにくいと思われる。全国を覆う、そして、国外にまで広がる、商品流通の時代は、律令国家以来の、中央集権的な政治、経済の構造を揺るがしてきた。時代の、間にある、時代が、室町である。実に、面白い..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
室町時代は、現代の商品経済社会の、始期であるという、事実には、驚く。
そして、それまでの、身分制度が、根底から、揺らいだ時期でもあるとの、指摘である。
室町時代は、古いものと、新しいものとが、交錯して、無秩序に見える。が、それが、他の時代との、違いである。
漠然としている、時代性である。だから、見えにくいと思われる。
全国を覆う、そして、国外にまで広がる、商品流通の時代は、律令国家以来の、中央集権的な政治、経済の構造を揺るがしてきた。
時代の、間にある、時代が、室町である。
実に、面白いのは、高い身分の領主が、貢納物として、諸国の物産を手に入れるのに対して、商品経済では、交換するものさえあれば、身分の如何を問わず、物資は、手に入るのである。
そして、その浸透により、身分よりも、富が優越する場合も、多々ある。
被支配身分の、町人、村人の共同体が、自治権を主張しだすのも、交換経済が作り出す、平等観念と無関係ではない。
封建的な身分では、領主身分の者しか、領地を所有することが出来ない。これに対して、金銭で買ったものなら、身分を問わず、誰でも、土地を所有することが出来る。
これは、画期的なことだった。
経済的優劣が、すべてを決定するということだ。市民的所有の、論理である。
身分制度が、崩れたのではなく、その変化の度合いに相当する、新たな身分制が出来たのである。それが、室町期である。
その、室町期があればこそ、戦国時代が存在する。
下剋上と言う時代である。
いよいよ、近代に近づく時代性の到来である。
当時の保守の公家は、武士は武士らしく、公家は公家らしくと、嘆いたそうだ。つまり、鎌倉時代の身分のあり方を、良しとしていたのである。
だが、更に、室町期の最盛期の、義満の時代になると、事態はもっと進む。
義満は、位、人臣を極め、法皇の儀礼を受けている。更に、正室日野康子を天皇の准母として、女院号を授けられている。
義満の意図するところは、天皇朝廷の絶対的地位の低下と、その相対化であり、天皇家と将軍家の、なし崩しの一体化である。
徳川幕府も、天皇家の動きをけん制したが、一体化を目論んだのではない。天皇家の、封印である。
その歴史を見れば、天皇家の相対化と、同一化は、ある程度、達成された感がある。
後花園天皇の実父、後崇光院が、その日記に、将軍に対する恐怖の情を持っていたことが、記されている。
応仁、文明の乱がおこった時、将軍義政夫婦は、まず、正統性の象徴たる天皇を、我元に、迎えている。
ここでは、天皇は、夫妻の丸抱えとなっていたという。
色々と話はあるが、兎に角、天皇家は、将軍家に対して、恐慌状態に陥っていたという。
さて、室町期が、現代を写していると考えると、実に、室町期が明確に見える。つまり、室町時代は、今も続いているということだ。そのような感覚を持って、歴史を俯瞰するのである。
私が、精神史のみならず、室町期で、止まった理由が、私なりに、理解出来たという。
世襲身分の崩壊の様も見える。
領主権の根幹である、領主の土地領有権が、根底から動揺したのである。
領主の中には、金に困って、領地を売り渡す者が、増したという。
また、買う人は、領主身分とは限らず、凡下と呼ばれる、庶民階層の高利貸しが多く、それで、世襲身分が崩れ出した。
それを元に戻そうと、徳政令が出された。この徳政令は、領主反動の性格をもっており、土倉など高利貸は、金銭による売買の権利、それは、市民的な所有権を主張する。だが、室町期の徳政令は、一般庶民の債務破棄にまで及んだことから、単なる、領主反動ではなく、庶民の生活権を守るものと、領主反動とが、一緒になったもので、複雑である。
領主の土地領有権とは、農民が土地を耕作して、年貢を納めて、成り立つ。だから、領主は、自分の領有権のためには、領地を耕作している農民の、土地耕作権を、守らなければならないという、側面もあった。
ここに、領主と農民が共同で、高利貸し、つまり、土倉などに対抗するという局面も見られる。
現代では、考えられない権利、徳政令を、幕府も、戦国大名も、織田信長も、徳川家康も発布したのは、領主の領有権と、農民の耕作権との、双方から成り立つ、封建的土地所有を、土倉、つまり高利貸しから、守らなければ、封建社会が、持たなかったと言える。
そして、土倉は、この双方に対決することになる。
徳政一揆の襲撃に対抗するめ、都市に集まった。都市は、多くの徳政令を適用させない場所として、幕府から、徳政免除権を獲得し、様々な方法で、徳政一揆を撃退する。
と、ここまで書いて、私の主旨とは、少し違うことに気づいた。
あまりに、専門的に、詳しい記述である。もう少し、室町幕府の有様を、見ることにする。
その幕府の様は、現代に通ずるものが、多々あると、思う。いや、未だに、室町期から、現代は、抜け出ていないのである。まだ、室町期が、続いているような感覚を、私は、覚える。
だから、室町期からのものを、伝統などと、呼べる意味がないのだ。それは、今も、そのようだからである。
伝統とは、千年の月日を要するものである。





<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>室町時代は、現代の商品経済社会の、始期であるという、事実には、驚く。</p><br /><p>そして、それまでの、身分制度が、根底から、揺らいだ時期でもあるとの、指摘である。</p><br /><p>室町時代は、古いものと、新しいものとが、交錯して、無秩序に見える。</p><p>が、それが、他の時代との、違いである。</p><br /><p>漠然としている、時代性である。</p><p>だから、見えにくいと思われる。</p><br /><p>全国を覆う、そして、国外にまで広がる、商品流通の時代は、律令国家以来の、中央集権的な政治、経済の構造を揺るがしてきた。</p><br /><p>時代の、間にある、時代が、室町である。</p><br /><p>実に、面白いのは、高い身分の領主が、貢納物として、諸国の物産を手に入れるのに対して、商品経済では、交換するものさえあれば、身分の如何を問わず、物資は、手に入るのである。</p><br /><p>そして、その浸透により、身分よりも、富が優越する場合も、多々ある。</p><br /><p>被支配身分の、町人、村人の共同体が、自治権を主張しだすのも、交換経済が作り出す、平等観念と無関係ではない。</p><br /><p>封建的な身分では、領主身分の者しか、領地を所有することが出来ない。これに対して、金銭で買ったものなら、身分を問わず、誰でも、土地を所有することが出来る。</p><br /><p>これは、画期的なことだった。</p><br /><p>経済的優劣が、すべてを決定するということだ。</p><p>市民的所有の、論理である。</p><br /><p>身分制度が、崩れたのではなく、その変化の度合いに相当する、新たな身分制が出来たのである。</p><p>それが、室町期である。</p><br /><p>その、室町期があればこそ、戦国時代が存在する。</p><br /><p>下剋上と言う時代である。</p><br /><p>いよいよ、近代に近づく時代性の到来である。</p><br /><p>当時の保守の公家は、武士は武士らしく、公家は公家らしくと、嘆いたそうだ。</p><p>つまり、鎌倉時代の身分のあり方を、良しとしていたのである。</p><br /><p>だが、更に、室町期の最盛期の、義満の時代になると、事態はもっと進む。</p><br /><p>義満は、位、人臣を極め、法皇の儀礼を受けている。</p><p>更に、正室日野康子を天皇の准母として、女院号を授けられている。</p><br /><p>義満の意図するところは、天皇朝廷の絶対的地位の低下と、その相対化であり、天皇家と将軍家の、なし崩しの一体化である。</p><br /><p>徳川幕府も、天皇家の動きをけん制したが、一体化を目論んだのではない。</p><p>天皇家の、封印である。</p><br /><p>その歴史を見れば、天皇家の相対化と、同一化は、ある程度、達成された感がある。</p><br /><p>後花園天皇の実父、後崇光院が、その日記に、将軍に対する恐怖の情を持っていたことが、記されている。</p><br /><p>応仁、文明の乱がおこった時、将軍義政夫婦は、まず、正統性の象徴たる天皇を、我元に、迎えている。</p><br /><p>ここでは、天皇は、夫妻の丸抱えとなっていたという。</p><br /><p>色々と話はあるが、兎に角、天皇家は、将軍家に対して、恐慌状態に陥っていたという。</p><br /><p>さて、室町期が、現代を写していると考えると、実に、室町期が明確に見える。</p><p>つまり、室町時代は、今も続いているということだ。</p><p>そのような感覚を持って、歴史を俯瞰するのである。</p><br /><p>私が、精神史のみならず、室町期で、止まった理由が、私なりに、理解出来たという。</p><br /><p>世襲身分の崩壊の様も見える。</p><br /><p>領主権の根幹である、領主の土地領有権が、根底から動揺したのである。</p><br /><p>領主の中には、金に困って、領地を売り渡す者が、増したという。</p><br /><p>また、買う人は、領主身分とは限らず、凡下と呼ばれる、庶民階層の高利貸しが多く、それで、世襲身分が崩れ出した。</p><br /><p>それを元に戻そうと、徳政令が出された。</p><p>この徳政令は、領主反動の性格をもっており、土倉など高利貸は、金銭による売買の権利、それは、市民的な所有権を主張する。</p><p>だが、室町期の徳政令は、一般庶民の債務破棄にまで及んだことから、単なる、領主反動ではなく、庶民の生活権を守るものと、領主反動とが、一緒になったもので、複雑である。</p><br /><p>領主の土地領有権とは、農民が土地を耕作して、年貢を納めて、成り立つ。だから、領主は、自分の領有権のためには、領地を耕作している農民の、土地耕作権を、守らなければならないという、側面もあった。</p><br /><p>ここに、領主と農民が共同で、高利貸し、つまり、土倉などに対抗するという局面も見られる。</p><br /><p>現代では、考えられない権利、徳政令を、幕府も、戦国大名も、織田信長も、徳川家康も発布したのは、領主の領有権と、農民の耕作権との、双方から成り立つ、封建的土地所有を、土倉、つまり高利貸しから、守らなければ、封建社会が、持たなかったと言える。</p><br /><p>そして、土倉は、この双方に対決することになる。</p><br /><p>徳政一揆の襲撃に対抗するめ、都市に集まった。</p><p>都市は、多くの徳政令を適用させない場所として、幕府から、徳政免除権を獲得し、様々な方法で、徳政一揆を撃退する。</p><br /><p>と、ここまで書いて、私の主旨とは、少し違うことに気づいた。</p><br /><p>あまりに、専門的に、詳しい記述である。</p><p>もう少し、室町幕府の有様を、見ることにする。</p><br /><p>その幕府の様は、現代に通ずるものが、多々あると、思う。</p><p>いや、未だに、室町期から、現代は、抜け出ていないのである。</p><p>まだ、室町期が、続いているような感覚を、私は、覚える。</p><br /><p>だから、室町期からのものを、伝統などと、呼べる意味がないのだ。</p><p>それは、今も、そのようだからである。</p><br /><p>伝統とは、千年の月日を要するものである。</p><br /><br /><br /><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>国を愛して何が悪い7</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479352116</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479320611.html</link>
      <title>国を愛して何が悪い264</title>
      <pubDate>Sat, 02 Jan 2021 08:19:57 +0900</pubDate>
            <description>室町時代とは、祇園会山鉾巡礼の成立と、大文字送り火の成立時期にはさまった一世紀、十五世紀の時代をいうのである。それは南北両朝がようやく合一して、一世紀を通じて戦われた南北朝動乱が終息した三代将軍足利義満の治世から、義持、義教を経て、八代将軍吉正御台所富子までの時代、金閣から銀閣までの間、それが室町時代であった。脇田晴子　室町時代上記の定義で、話を進める。更に、早島大祐著、室町幕府論、からも、勉強させてもらう。伝統文化といった場合、脳裏に浮かび上がるのは、いかにも京都らしいと表..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
室町時代とは、祇園会山鉾巡礼の成立と、大文字送り火の成立時期にはさまった一世紀、十五世紀の時代をいうのである。それは南北両朝がようやく合一して、一世紀を通じて戦われた南北朝動乱が終息した三代将軍足利義満の治世から、義持、義教を経て、八代将軍吉正御台所富子までの時代、金閣から銀閣までの間、それが室町時代であった。脇田晴子　室町時代
上記の定義で、話を進める。
更に、早島大祐著、室町幕府論、からも、勉強させてもらう。
伝統文化といった場合、脳裏に浮かび上がるのは、いかにも京都らしいと表現されるさまざまな祭礼だろう。そのうちの一つに葵祭があり、祇園祭、時代祭りとともに京の三大祭りとして、一般によく知られている。早島
葵祭は、賀茂祭とも言われる。
賀茂祭は、光源氏の世の王朝の美を今に体現し、日本の伝統文化を伝えるものとして知られている。しかし、このようにいにしえの賀茂祭を憧憬する一方で、じつは賀茂祭の盛期の一つが室町時代であったことを知る人は少ないだろう。早島
そこで、話しを飛ばして、現在、日本の伝統文化と呼ばれるものは、すべて、室町期からのものであること、だ。
私は、そこで、日本の伝統文化という場合は、千年を経たもの、万葉集と、源氏物語の、歌道こそ、伝統と言えると、日頃から、言う。
室町期は、精々、650年ほど前のことである。
まあ、それはそれとして、室町期を再確認することで、日本の精神史の、付録としたい。
じつは室町時代に辰興された儀礼・祭祀は、この賀茂祭だけに止まらない。現在も皇居で行われている諸儀式のなかにも室町時代に再興されたものが多いのであるが、にもかかわらず、応仁の乱による諸儀礼・祭祀の中絶が強調される反面、室町時代にこれらの儀式が執り行われていた事実にはまったく注意が払われてこなかったのである。早島
その理解の元には、「逆臣」尊氏の室町幕府が、朝廷を壟断した、皇室衰微の時代であったという、皇国史観的な見方があったと言える。
だが、禅宗史、茶道史などでは、室町期のことについて、詳しく、歴史的位置づけが行われている。
だから、皇国史観以来の、空白が、埋め切れていないということが、言えるのである。
以前書いた通り、室町期に関して、再度の発見が必要であると、言う。
研究家たちは、室町期は、歴史のエアーポケットであったと、言うのである。分析が必要なのである。
私は、素人であり、基本は、精神史なので、ざっくりと、俯瞰して、書いてみることにする。
それぞれの研究家の、課題とテーマ、方法は違うが、私のような素人には、あまり関係ないことである。
これは、論文ではない。エッセイである。そのつもりで、読むことだ。
室町時代の大きな特色として挙げられるのは首都京都の誕生である。鎌倉時代には武家の都・鎌倉と公家の都・京都というように、列島社会の核は大きく二つに分かれていた。しかし、室町幕府が京都に拠点を置いた結果、前代には二つに分散していた公武の政治の核が統合されることになった。そのためにこの時期の公武関係論が重視されてきたわけであるが、それだけではなく、社会も、首都京都を大きな核として再編されることになる。その再編の意味が顕在化してくるのが、義満によって南北朝の動乱が鎮められたとの義持の時代なのである。早島
室町時代とは、実は、一筋縄ではいかない、時代の姿がある。
二毛作、三毛作の展開する肥沃な農村、市のにぎわい、港津の殷賑、それらに象徴される富が出現してくる社会という印象が浮かび上がってくる。その富をもつ人は、すなわち徳のある人と考えられ「有徳人」とよばれた。徳は得に通じ、仏神の加護により人徳があるから、富も得ると考えられたのであろう。脇田
ところが・・・その一方では、生業から追われた乞食を生んだのである。
巷では、乞食がたむろして、寺社門前には、土車のまま移動する、乞食がいた。そんな状況は、「弱法師」「土車」など、能楽の題材となり、多少美化されて、演じられている。
寛正の大飢饉の時に、京都には、八万二千人以上の、死体が転がっていたといわれる。
餓死が溢れる、京都となっていた状況である。そんな際も、将軍は、民を放り、贅沢な建物に執心して、ついに、天皇から、諫めのお歌、御製を送られるという、事態であった。
富のある人、乞食・・・あまりに極端な、状況が、室町期にはあったということだ。
その開きが大きい時代、それが、室町である。
さて、室町中期、末期頃から、全国規模で、農村にも浸透し始めた、商品経済が、中世の伝統的な、荘園制社会を、崩し始める。
商品経済という影響は、見逃せないのである。つまり、時代の変化が、目に見えて始まった時代である。
それまでの時代は、地主と小作人の時代という、枠組みがあった。それが、変化して行くという、時代性なのである。
その変化が、民の心、精神に、また、変化を起こす。
精神史からは、見えない、新しい、精神の時代である。
それは、庶民の精神史ともいえる。亀井勝一郎の精神史研究では、比較的、有名な人たちの、書き物から、行動を通して、精神の有様を見たが、庶民にまで、手が届かなかった。
いよいよ、庶民の登場である。

<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>室町時代とは、祇園会山鉾巡礼の成立と、大文字送り火の成立時期にはさまった一世紀、十五世紀の時代をいうのである。それは南北両朝がようやく合一して、一世紀を通じて戦われた南北朝動乱が終息した三代将軍足利義満の治世から、義持、義教を経て、八代将軍吉正御台所富子までの時代、金閣から銀閣までの間、それが室町時代であった。</p><p>脇田晴子　室町時代</p><br /><p>上記の定義で、話を進める。</p><br /><p>更に、早島大祐著、室町幕府論、からも、勉強させてもらう。</p><br /><p>伝統文化といった場合、脳裏に浮かび上がるのは、いかにも京都らしいと表現されるさまざまな祭礼だろう。そのうちの一つに葵祭があり、祇園祭、時代祭りとともに京の三大祭りとして、一般によく知られている。</p><p>早島</p><br /><p>葵祭は、賀茂祭とも言われる。</p><br /><p>賀茂祭は、光源氏の世の王朝の美を今に体現し、日本の伝統文化を伝えるものとして知られている。しかし、このようにいにしえの賀茂祭を憧憬する一方で、じつは賀茂祭の盛期の一つが室町時代であったことを知る人は少ないだろう。</p><p>早島</p><br /><p>そこで、話しを飛ばして、現在、日本の伝統文化と呼ばれるものは、すべて、室町期からのものであること、だ。</p><br /><p>私は、そこで、日本の伝統文化という場合は、千年を経たもの、万葉集と、源氏物語の、歌道こそ、伝統と言えると、日頃から、言う。</p><br /><p>室町期は、精々、650年ほど前のことである。</p><br /><p>まあ、それはそれとして、室町期を再確認することで、日本の精神史の、付録としたい。</p><br /><p>じつは室町時代に辰興された儀礼・祭祀は、この賀茂祭だけに止まらない。現在も皇居で行われている諸儀式のなかにも室町時代に再興されたものが多いのであるが、にもかかわらず、応仁の乱による諸儀礼・祭祀の中絶が強調される反面、室町時代にこれらの儀式が執り行われていた事実にはまったく注意が払われてこなかったのである。</p><p>早島</p><br /><p>その理解の元には、「逆臣」尊氏の室町幕府が、朝廷を壟断した、皇室衰微の時代であったという、皇国史観的な見方があったと言える。</p><br /><p>だが、禅宗史、茶道史などでは、室町期のことについて、詳しく、歴史的位置づけが行われている。</p><br /><p>だから、皇国史観以来の、空白が、埋め切れていないということが、言えるのである。</p><br /><p>以前書いた通り、室町期に関して、再度の発見が必要であると、言う。</p><br /><p>研究家たちは、室町期は、歴史のエアーポケットであったと、言うのである。</p><p>分析が必要なのである。</p><br /><p>私は、素人であり、基本は、精神史なので、ざっくりと、俯瞰して、書いてみることにする。</p><br /><p>それぞれの研究家の、課題とテーマ、方法は違うが、私のような素人には、あまり関係ないことである。</p><br /><p>これは、論文ではない。</p><p>エッセイである。</p><p>そのつもりで、読むことだ。</p><br /><p>室町時代の大きな特色として挙げられるのは首都京都の誕生である。鎌倉時代には武家の都・鎌倉と公家の都・京都というように、列島社会の核は大きく二つに分かれていた。しかし、室町幕府が京都に拠点を置いた結果、前代には二つに分散していた公武の政治の核が統合されることになった。そのためにこの時期の公武関係論が重視されてきたわけであるが、それだけではなく、社会も、首都京都を大きな核として再編されることになる。その再編の意味が顕在化してくるのが、義満によって南北朝の動乱が鎮められたとの義持の時代なのである。</p><p>早島</p><br /><p>室町時代とは、実は、一筋縄ではいかない、時代の姿がある。</p><br /><p>二毛作、三毛作の展開する肥沃な農村、市のにぎわい、港津の殷賑、それらに象徴される富が出現してくる社会という印象が浮かび上がってくる。その富をもつ人は、すなわち徳のある人と考えられ「有徳人」とよばれた。徳は得に通じ、仏神の加護により人徳があるから、富も得ると考えられたのであろう。</p><p>脇田</p><br /><p>ところが・・・</p><p>その一方では、生業から追われた乞食を生んだのである。</p><br /><p>巷では、乞食がたむろして、寺社門前には、土車のまま移動する、乞食がいた。</p><p>そんな状況は、「弱法師」「土車」など、能楽の題材となり、多少美化されて、演じられている。</p><br /><p>寛正の大飢饉の時に、京都には、八万二千人以上の、死体が転がっていたといわれる。</p><br /><p>餓死が溢れる、京都となっていた状況である。</p><p>そんな際も、将軍は、民を放り、贅沢な建物に執心して、ついに、天皇から、諫めのお歌、御製を送られるという、事態であった。</p><br /><p>富のある人、乞食・・・</p><p>あまりに極端な、状況が、室町期にはあったということだ。</p><br /><p>その開きが大きい時代、それが、室町である。</p><br /><p>さて、室町中期、末期頃から、全国規模で、農村にも浸透し始めた、商品経済が、中世の伝統的な、荘園制社会を、崩し始める。</p><br /><p>商品経済という影響は、見逃せないのである。</p><p>つまり、時代の変化が、目に見えて始まった時代である。</p><br /><p>それまでの時代は、地主と小作人の時代という、枠組みがあった。</p><p>それが、変化して行くという、時代性なのである。</p><br /><p>その変化が、民の心、精神に、また、変化を起こす。</p><br /><p>精神史からは、見えない、新しい、精神の時代である。</p><br /><p>それは、庶民の精神史ともいえる。</p><p>亀井勝一郎の精神史研究では、比較的、有名な人たちの、書き物から、行動を通して、精神の有様を見たが、庶民にまで、手が届かなかった。</p><br /><p>いよいよ、庶民の登場である。</p><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>国を愛して何が悪い7</category>
      <author>木村天山３</author>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479250546.html</link>
      <title>国を愛して何が悪い263</title>
      <pubDate>Tue, 29 Dec 2020 07:41:24 +0900</pubDate>
            <description>それでは、法然の言葉。疑いながらも念仏すれば、往生す。法然の信仰と、決定、けつじょう、である。西行のようではなく、決定したのである。確実に彼の言葉かどうか文献的には不明だが、彼と同朋同行とのあいだの対話のうちに形成された言葉としてみればさらに尊い。「疑いながらも」といったときの「疑い」の深さをその時代に即して考えてみる必要がある。当時の人々の空虚感とは、南都北嶺の壮大な大寺院が、魂の廃墟と化したことであった。仏教伝来以来、数百年の年月を費やして、一体何が成就したのか。一切衆生..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
それでは、法然の言葉。
疑いながらも念仏すれば、往生す。
法然の信仰と、決定、けつじょう、である。西行のようではなく、決定したのである。
確実に彼の言葉かどうか文献的には不明だが、彼と同朋同行とのあいだの対話のうちに形成された言葉としてみればさらに尊い。「疑いながらも」といったときの「疑い」の深さをその時代に即して考えてみる必要がある。当時の人々の空虚感とは、南都北嶺の壮大な大寺院が、魂の廃墟と化したことであった。仏教伝来以来、数百年の年月を費やして、一体何が成就したのか。一切衆生の救いなどあり得たのか。失望落胆したにちがいないのである。亀井
宗教に、失望落胆するのは、精神のまともな感覚である。それらは、幻想、妄想であるからだ。
ただ、その集団のみが、何やら、盛んに、嘘を語るということだ。成仏するだの、極楽浄土だの、その他諸々。
さらに凡夫としての心中を凝視したとき、妄想妄念の巣であり、救いの可能性など微塵もなしと自覚せざるをえなかった。無限の疑惑にとらわれたであろうが、そのあげくに辿りついたのが「他力」への自己投入であった。自己の分別の入りこまない、「賜りたる信心」としての「ただひたすら念仏」という信仰であった。亀井
念仏にこもる弥陀の無限博大の心を、絶望者として仰いだということが核心である。亀井
さて、その法然だが、それは、すでに、中国浄土教にて、唱えられていたものである。法然は、そこから、選んだ。法然が、発明発見したのではない。
隋、唐の時代の、大陸の浄土教である。これを、法然の発見と思っていると、誤る。
別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。
彼を動かしているのは乱世の切迫感である。それぞれに異なった道を選んだが、これは親鸞にも道元にも日蓮にも共通している「無常迅速なり、生死事大なり」という乱世の声である。それと「末法の世」という危機感である。亀井
この、末法というものも、隋、唐からの、輸入である。
「信心決定」しなければならなかったのだ。亀井
そして、それは、王朝の女房文学の残した、嘆きに応えたものと亀井は、言う。
紫式部たちの、それは、夢であったとのこと。
この場合、西行も法然も、わが身ひとつで、武家と宗派を離脱したことを忘れてはなるまい。亀井
第二の、宗教改革が起こるはずだったとのことだが、王朝末期と同じく、「仏法なし」なのである。如何に、僧家たちが、堕落していたか、あるいは、それをすでに、見抜いていたのか。
つまり、妄想である、と。
それを精神の危機として、自覚し、改革の条件はあった。だが、これを境として、五百年間衰微してゆく。
亀井が、最後の仏教者として、一休宗純と蓮如を取り上げている。
蓮如については・・・
本願寺中興の祖と言われ、本願寺を大宗派として組織した人だが、彼の真の戦いはどこにあったのか。宗派の拡大のさなかにあって宗派を否定するという逆説を生きようとしたことだ。亀井
現在の本願寺を見れば、良く解る。それは、何の問題意識もなく、惰性に流れて、江戸時代に確立された、そのままを、生きる。そこには、何の疑問もなく、ただただ、惰性で本願寺でございと、やっている。
浄土真宗とは、呆れた、宗派であるが、信者が多いので、誤魔化しつつ、やっている。勿論、私は、ただ、呆れ果てている。
蓮如から以後の本願寺は、その宗派性のつよさ、組織力はむろん、財政や軍事力など、始祖親鸞の意志とは全く別の方向に進んだ。本願寺とは親鸞の名による親鸞への別離の殿堂ではなかったか。亀井
その通り、である。もはや、どこにも、始祖親鸞の、教えなど皆無である。
堕落しても、生き残るのが、宗教である。例えば、キリスト教、カトリックなどは、その見本であろう。
しかし大組織の中心となり、教祖として偶像と化したとき、心のなかでは悶えながら、もはやどうすることも出来なかったのであうろか。集まってきた信徒たち自身が、大本願寺の法主としての権威を望んだであろう。それだけの人間的魅力の所有者であり、一種の呪縛力を発揮したにちがいないのである。亀井
人間とは、愚かな者である。
こうして、延々と、幻想、妄想に頼り、生きるしかないという、悲劇である。
この精神史を見ていると、ただ、人間の愚かさを見る。しかし、救いは、ある。
それが、芸術である。もし、辛うじて、宗教が許されるなら、そこから出た、芸術活動と、その作品である。そして、文化と言われるもの。
芸術文化の世界である。現在、日本の伝統文化と言われるものが、この室町時代からのものが多い。
鎌倉時代では、武家礼法の、小笠原流のみが、現在に至る。そこで、私は、鎌倉幕府、江戸幕府という、明確にされる時代とは違う、室町期の、幕府と、その時代を、精神史以外の、歴史学から、みることにする。
二つの幕府の時代と違い、室町期だけは、まだ、朧なのである。歴史学から、俯瞰すると、何が見えるのか、である。


<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>それでは、法然の言葉。</p><br /><p>疑いながらも念仏すれば、往生す。</p><br /><p>法然の信仰と、決定、けつじょう、である。</p><p>西行のようではなく、決定したのである。</p><br /><p>確実に彼の言葉かどうか文献的には不明だが、彼と同朋同行とのあいだの対話のうちに形成された言葉としてみればさらに尊い。「疑いながらも」といったときの「疑い」の深さをその時代に即して考えてみる必要がある。当時の人々の空虚感とは、南都北嶺の壮大な大寺院が、魂の廃墟と化したことであった。仏教伝来以来、数百年の年月を費やして、一体何が成就したのか。一切衆生の救いなどあり得たのか。失望落胆したにちがいないのである。</p><p>亀井</p><br /><p>宗教に、失望落胆するのは、精神のまともな感覚である。</p><p>それらは、幻想、妄想であるからだ。</p><br /><p>ただ、その集団のみが、何やら、盛んに、嘘を語るということだ。</p><p>成仏するだの、極楽浄土だの、その他諸々。</p><br /><p>さらに凡夫としての心中を凝視したとき、妄想妄念の巣であり、救いの可能性など微塵もなしと自覚せざるをえなかった。無限の疑惑にとらわれたであろうが、そのあげくに辿りついたのが「他力」への自己投入であった。自己の分別の入りこまない、「賜りたる信心」としての「ただひたすら念仏」という信仰であった。</p><p>亀井</p><br /><p>念仏にこもる弥陀の無限博大の心を、絶望者として仰いだということが核心である。</p><p>亀井</p><br /><p>さて、その法然だが、それは、すでに、中国浄土教にて、唱えられていたものである。</p><p>法然は、そこから、選んだ。</p><p>法然が、発明発見したのではない。</p><br /><p>隋、唐の時代の、大陸の浄土教である。</p><p>これを、法然の発見と思っていると、誤る。</p><br /><p>別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。</p><br /><p>彼を動かしているのは乱世の切迫感である。それぞれに異なった道を選んだが、これは親鸞にも道元にも日蓮にも共通している「無常迅速なり、生死事大なり」という乱世の声である。それと「末法の世」という危機感である。</p><p>亀井</p><br /><p>この、末法というものも、隋、唐からの、輸入である。</p><br /><p>「信心決定」しなければならなかったのだ。</p><p>亀井</p><br /><p>そして、それは、王朝の女房文学の残した、嘆きに応えたものと亀井は、言う。</p><br /><p>紫式部たちの、それは、夢であったとのこと。</p><br /><p>この場合、西行も法然も、わが身ひとつで、武家と宗派を離脱したことを忘れてはなるまい。</p><p>亀井</p><br /><p>第二の、宗教改革が起こるはずだったとのことだが、王朝末期と同じく、「仏法なし」なのである。</p><p>如何に、僧家たちが、堕落していたか、あるいは、それをすでに、見抜いていたのか。</p><br /><p>つまり、妄想である、と。</p><br /><p>それを精神の危機として、自覚し、改革の条件はあった。</p><p>だが、これを境として、五百年間衰微してゆく。</p><br /><p>亀井が、最後の仏教者として、一休宗純と蓮如を取り上げている。</p><br /><p>蓮如については・・・</p><br /><p>本願寺中興の祖と言われ、本願寺を大宗派として組織した人だが、彼の真の戦いはどこにあったのか。宗派の拡大のさなかにあって宗派を否定するという逆説を生きようとしたことだ。</p><p>亀井</p><br /><p>現在の本願寺を見れば、良く解る。</p><p>それは、何の問題意識もなく、惰性に流れて、江戸時代に確立された、そのままを、生きる。そこには、何の疑問もなく、ただただ、惰性で本願寺でございと、やっている。</p><br /><p>浄土真宗とは、呆れた、宗派であるが、信者が多いので、誤魔化しつつ、やっている。</p><p>勿論、私は、ただ、呆れ果てている。</p><br /><p>蓮如から以後の本願寺は、その宗派性のつよさ、組織力はむろん、財政や軍事力など、始祖親鸞の意志とは全く別の方向に進んだ。本願寺とは親鸞の名による親鸞への別離の殿堂ではなかったか。</p><p>亀井</p><br /><p>その通り、である。</p><p>もはや、どこにも、始祖親鸞の、教えなど皆無である。</p><br /><p>堕落しても、生き残るのが、宗教である。</p><p>例えば、キリスト教、カトリックなどは、その見本であろう。</p><br /><p>しかし大組織の中心となり、教祖として偶像と化したとき、心のなかでは悶えながら、もはやどうすることも出来なかったのであうろか。集まってきた信徒たち自身が、大本願寺の法主としての権威を望んだであろう。それだけの人間的魅力の所有者であり、一種の呪縛力を発揮したにちがいないのである。</p><p>亀井</p><br /><p>人間とは、愚かな者である。</p><br /><p>こうして、延々と、幻想、妄想に頼り、生きるしかないという、悲劇である。</p><br /><p>この精神史を見ていると、ただ、人間の愚かさを見る。</p><p>しかし、救いは、ある。</p><br /><p>それが、芸術である。</p><p>もし、辛うじて、宗教が許されるなら、そこから出た、芸術活動と、その作品である。</p><p>そして、文化と言われるもの。</p><br /><p>芸術文化の世界である。</p><p>現在、日本の伝統文化と言われるものが、この室町時代からのものが多い。</p><br /><p>鎌倉時代では、武家礼法の、小笠原流のみが、現在に至る。</p><p>そこで、私は、鎌倉幕府、江戸幕府という、明確にされる時代とは違う、室町期の、幕府と、その時代を、精神史以外の、歴史学から、みることにする。</p><br /><p>二つの幕府の時代と違い、室町期だけは、まだ、朧なのである。</p><p>歴史学から、俯瞰すると、何が見えるのか、である。</p><br /><br /><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>国を愛して何が悪い7</category>
      <author>木村天山３</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,kimura-tenzan3/479250546</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479233912.html</link>
      <title>日々の言い分581</title>
      <pubDate>Mon, 28 Dec 2020 08:18:15 +0900</pubDate>
            <description>今、日本で新型コロナウイルスが騒がれている中で、実はもう新たなステージに進んでいます。中国では、マスクを使った外交戦略をはじめ、偏ったプロパガンダを世界に発信し、アメリカを世界の敵かのように仕向け、自分たちは“世界の覇権国”かのような振る舞いをしています。しかし、新型コロナウイルスが出たのは武漢からであり、彼らの情報隠蔽などによって、世界中でコロナウイルスが蔓延し、世界中で被害を受けています。にも関わらず、彼らはその風潮を無くそうと動いています。あたかも中国が要因ではないかの..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
今、日本で新型コロナウイルスが騒がれている中で、実はもう新たなステージに進んでいます。中国では、マスクを使った外交戦略をはじめ、偏ったプロパガンダを世界に発信し、アメリカを世界の敵かのように仕向け、自分たちは“世界の覇権国”かのような振る舞いをしています。
しかし、新型コロナウイルスが出たのは武漢からであり、彼らの情報隠蔽などによって、世界中でコロナウイルスが蔓延し、世界中で被害を受けています。にも関わらず、彼らはその風潮を無くそうと動いています。あたかも中国が要因ではないかのように...
このような事実や世界で起きている状況は日本のメディアではほとんど流れませんし、新型コロナウイルスによる日本人の感染者情報一色で、世界の裏側で何が起きているのかもわかりません。
日本のメディアでは、当たり障りのない事や同じような内容を、言い方を変え、伝え方を変え、ひたすら私たちの恐怖心を煽り続けている状況です。
あなたも、またこれか？ 今頃こんな事を報道しているのか？などウンザリしているのではないでしょうか？
しかし、なぜ日本のメディアでは、 本当に重要な内容は報道せず、調べれば誰でも分かるような薄っぺらい内容ばかりを報道しているのでしょうか？
なぜなら、日本のメディアは「中国を敵視しない」という中国との記者交換協定を結んでいるため、仮に、日本に反中国的な情報が入ってきたとしても、中国寄りの情報を信じさせられたり、意図的に偏向報道を流すなどしており、本当に重要な情報は入ってきません。
なので、日本のテレビや新聞などを見ていても、本当に重要な情報は隠されたままということ。つまり私たち日本人は、目隠しされた状態なのです。
『私たちはやっと気付き始めた。思っている以上に、すでに中国（の工作）は、私たちの社会に溶け込んでいる』
CIAの前中国担当局長のクリストファー・ジョンソン氏はこのように述べています。
それは、まさに国益を巡る「情報戦」がすでに世界各地で繰り広げられており、世界のパワーバランスからしても「中国(中国共産党)が何を企んでいるのか？」という視点抜きには世界情勢を語ることはできないのです。
こんな状況にも関わらず、知るべき情報、自分たちの生活、未来に影響のある情報が伝えられないまま、、、
昨年には、日本の経済界のトップらは約２３０人を引き連れて訪中をし、中国に迎合したり、 習近平を令和初の国賓に選定したり（さすがにギリギリで〝中止〟ではなく〝延期〟となりました）など、全くと言っていいほど危機感がありません... 
そんな甘い態度を取っている矢先、 新型コロナウイルスは、あたかも日本が拡散しているかのように世界中で報道され、日本人の入国を規制したり、ビザの発行を止めたり、日本人を差別したり暴力を振るったりなど、世界各国から日本人を排除する動きも発生しました。
WHO（世界保健機関）は2020年3月2日の会見で、 新型コロナウイルスの感染が広がっている日本を、「最も懸念される国」のひとつに挙げました。 一方で、中国に関しては、感染が収まってきて安心だと。
日本は被害者であるにも関わらず、日本で何の罪の無い人の命が奪われているにも関わらず、日本政府の甘い対応のせいで、いつの間にか被害者から加害者にすり替わっている訳です。
日本が今のまま中途半端な立場を取り続けたままだと、イタリアのように、中国共産党の思うままに利用され、気づいた時にはアメリカ・EU諸国に見放されるという最悪の展開が待っているかもしれません…
もうそんなのはやめにしませんか？いつまでもやられっぱなしでいるのは、もうやめませんか？
真実を伝えないメディアの情報ではなく、偏向していない正しい情報を元に中国共産党は何を企んでいるのか？米国は中国に対抗するために何をしようとしているのか？ 欧州各国は、それによってどう動くのか？
など彼らの動きを丁寧に紐解いていくと、 これから世界情勢はどう動いていくのか？今世界で何が起きているのか？この先の未来で 何が起こるか？そのようなことがはっきりと見えてくるはずです。
そして私たち国民一人一人が正しい知識を知り、マスコミに惑わされなくなれば、それは大きな影響力を持つ源であり、我々が豊かな日本を取り戻すための武器となり、自ずと日本が取るべき道が見えてくるはずです。
 "別にそんな情報知ったところで何の役にも立たないじゃないか"という人もいるでしょう。しかし、世界で起きている本当の事態を把握せず、知らず知らずのうちにそれに巻き込まれている... 
そんな状況って恐ろしくありませんか？ 
いつの間にか、世界では日本が今1番危険な国だと報道され、日本は新型コロナウイルスの被害者にも関わらず、しれっと加害者にすり替わっているという… 知らず知らずのうちにそれに巻き込まれ、カモにされているという事です。
今のままのお花畑状態の日本では、近いうちにイタリアのように中国に侵略され、彼らの都合の良いようにコトが運んでいくでしょう。同じことの繰り返しです…
中国にいいようにされ、悔しくないですか?腹がたちませんか?ただ、そんな状況も終わりにすることもできます。
上記の書き込みから・・・
中国という国の、有様、その魂胆を知ること。それが、どんなに恐ろしいことか・・・
その実態に関して、私は、別エッセイ、玉砕、にて、少しばかり、書き続けている。是非、参照ください。
そして、もう一つ重要なことは、日本側にも、中国に手助けする者がいるということだ。
親中派といわれる、国会議員等々・・・
こんな状態を続けて良いはずがない。知ることである。
知らないことは、無いことである。知ること無くして、対策は、出ない。
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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>今、日本で新型コロナウイルスが騒がれている中で、実はもう新たなステージに進んでいます。中国では、マスクを使った外交戦略をはじめ、偏ったプロパガンダを世界に発信し、アメリカを世界の敵かのように仕向け、自分たちは“世界の覇権国”かのような振る舞いをしています。</p><br /><p>しかし、新型コロナウイルスが出たのは武漢からであり、彼らの情報隠蔽などによって、世界中でコロナウイルスが蔓延し、世界中で被害を受けています。にも関わらず、彼らはその風潮を無くそうと動いています。あたかも中国が要因ではないかのように...</p><br /><p>このような事実や世界で起きている状況は日本のメディアではほとんど流れませんし、</p><p>新型コロナウイルスによる日本人の感染者情報一色で、世界の裏側で何が起きているのかもわかりません。</p><br /><p>日本のメディアでは、当たり障りのない事や同じような内容を、言い方を変え、伝え方を変え、ひたすら私たちの恐怖心を煽り続けている状況です。</p><br /><p>あなたも、またこれか？&nbsp;今頃こんな事を報道しているのか？などウンザリしているのではないでしょうか？</p><br /><p>しかし、なぜ日本のメディアでは、&nbsp;本当に重要な内容は報道せず、調べれば誰でも分かるような薄っぺらい内容ばかりを報道しているのでしょうか？</p><br /><p>なぜなら、日本のメディアは「中国を敵視しない」という中国との記者交換協定を結んでいるため、仮に、日本に反中国的な情報が入ってきたとしても、中国寄りの情報を信じさせられたり、意図的に偏向報道を流すなどしており、本当に重要な情報は入ってきません。</p><br /><p>なので、日本のテレビや新聞などを見ていても、本当に重要な情報は隠されたままということ。つまり私たち日本人は、目隠しされた状態なのです。</p><br /><p><strong><u><span>『私たちはやっと気付き始めた。思っている以上に、すでに中国（の工作）は、私たちの社会に溶け込んでいる』</span></u></strong></p><br /><p>CIAの前中国担当局長のクリストファー・ジョンソン氏はこのように述べています。</p><br /><p>それは、まさに国益を巡る「情報戦」がすでに世界各地で繰り広げられており、世界のパワーバランスからしても「中国(中国共産党)が何を企んでいるのか？」という視点抜きには世界情勢を語ることはできないのです。</p><br /><p>こんな状況にも関わらず、知るべき情報、自分たちの生活、未来に影響のある情報が伝えられないまま、、、</p><br /><p>昨年には、日本の経済界のトップらは約２３０人を引き連れて訪中をし、中国に迎合したり、&nbsp;習近平を令和初の国賓に選定したり（さすがにギリギリで〝中止〟ではなく〝延期〟となりました）など、全くと言っていいほど危機感がありません...&nbsp;</p><br /><p>そんな甘い態度を取っている矢先、&nbsp;新型コロナウイルスは、あたかも日本が拡散しているかのように世界中で報道され、日本人の入国を規制したり、ビザの発行を止めたり、日本人を差別したり暴力を振るったりなど、世界各国から日本人を排除する動きも発生しました。</p><br /><p>WHO（世界保健機関）は2020年3月2日の会見で、&nbsp;新型コロナウイルスの感染が広がっている日本を、「最も懸念される国」のひとつに挙げました。&nbsp;一方で、中国に関しては、感染が収まってきて安心だと。</p><br /><p>日本は被害者であるにも関わらず、日本で何の罪の無い人の命が奪われているにも関わらず、日本政府の甘い対応のせいで、いつの間にか被害者から加害者にすり替わっている訳です。</p><br /><p>日本が今のまま中途半端な立場を取り続けたままだと、イタリアのように、中国共産党の思うままに利用され、気づいた時にはアメリカ・EU諸国に見放されるという最悪の展開が待っているかもしれません…</p><br /><p>もうそんなのはやめにしませんか？いつまでもやられっぱなしでいるのは、もうやめませんか？</p><br /><p>真実を伝えないメディアの情報ではなく、偏向していない正しい情報を元に中国共産党は何を企んでいるのか？米国は中国に対抗するために何をしようとしているのか？&nbsp;欧州各国は、それによってどう動くのか？</p><br /><p>など彼らの動きを丁寧に紐解いていくと、&nbsp;これから世界情勢はどう動いていくのか？今世界で何が起きているのか？この先の未来で&nbsp;何が起こるか？そのようなことがはっきりと見えてくるはずです。</p><br /><p>そして私たち国民一人一人が正しい知識を知り、マスコミに惑わされなくなれば、それは大きな影響力を持つ源であり、我々が豊かな日本を取り戻すための武器となり、自ずと日本が取るべき道が見えてくるはずです。</p><br /><p>&nbsp;"別にそんな情報知ったところで何の役にも立たないじゃないか"という人もいるでしょう。しかし、世界で起きている本当の事態を把握せず、知らず知らずのうちにそれに巻き込まれている...&nbsp;</p><br /><p><strong><u><span>そんな状況って恐ろしくありませんか？&nbsp;</span></u></strong></p><br /><p>いつの間にか、世界では日本が今1番危険な国だと報道され、日本は新型コロナウイルスの被害者にも関わらず、しれっと加害者にすり替わっているという…&nbsp;知らず知らずのうちにそれに巻き込まれ、カモにされているという事です。</p><br /><p>今のままのお花畑状態の日本では、近いうちにイタリアのように中国に侵略され、彼らの都合の良いようにコトが運んでいくでしょう。同じことの繰り返しです…</p><br /><p>中国にいいようにされ、悔しくないですか?腹がたちませんか?ただ、そんな状況も終わりにすることもできます。</p><br /><p>上記の書き込みから・・・</p><br /><p>中国という国の、有様、その魂胆を知ること。</p><p>それが、どんなに恐ろしいことか・・・</p><br /><p>その実態に関して、私は、別エッセイ、玉砕、にて、少しばかり、書き続けている。</p><p>是非、参照ください。</p><br /><p>そして、もう一つ重要なことは、日本側にも、中国に手助けする者がいるということだ。</p><br /><p>親中派といわれる、国会議員等々・・・</p><br /><p>こんな状態を続けて良いはずがない。</p><p>知ることである。</p><br /><p>知らないことは、無いことである。</p><p>知ること無くして、対策は、出ない。</p><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
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      <link>https://kimura-tenzan3.seesaa.net/article/479218222.html</link>
      <title>日々の言い分580</title>
      <pubDate>Sun, 27 Dec 2020 08:03:22 +0900</pubDate>
            <description>国家の秩序・風紀が乱れるときは、司法の乱れから始まる。韓国では、正邪を糺（ただ）す役割の司法が、完全に文政権擁護に回っているのだ。中立であるべき司法が、政権擁護に回れば世の中は真っ暗闇である。その中でただ一人、尹錫悦（ユン・ソクヨル）検察総長が秋美愛（チュ・ミエ）法務部長官から捜査指揮権を3度も奪われながら、辞表も出さず孤塁を守っている。韓国で、最後の希望はこのユン検察総長が、政権の弾圧に屈せずに任期中、その職に止まって欲しいということだ。日本では、考えられない情景である。検..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
国家の秩序・風紀が乱れるときは、司法の乱れから始まる。韓国では、正邪を糺（ただ）す役割の司法が、完全に文政権擁護に回っているのだ。中立であるべき司法が、政権擁護に回れば世の中は真っ暗闇である。その中でただ一人、尹錫悦（ユン・ソクヨル）検察総長が秋美愛（チュ・ミエ）法務部長官から捜査指揮権を3度も奪われながら、辞表も出さず孤塁を守っている。韓国で、最後の希望はこのユン検察総長が、政権の弾圧に屈せずに任期中、その職に止まって欲しいということだ。日本では、考えられない情景である。検察は、政治から中立であるのが常識であるからだ。ただ最近、日本で次期検事総長人事を巡って、政府が定年延長を検討する法案を準備し、野党や国民の非難を浴びて取り止めた一件がある。国民の批判を集める司法人事は、剛腕政府といえども実現不可能である。それは、検察と政権の癒着が懸念されるからだ。法務部長官の恣意性が生む大混乱韓国では、それが政治の力で強引に行われている。指揮するのは、秋法務部長官である。秋氏には文大統領の信任があるとはいえ、秋氏が判事出身という経歴を見ても分かるように、やってはならない「捜査指揮権」を現在の検察総長に対して4度も発動させている。韓国の捜査指揮権発動は、過去4回を数えるのみだ。そのうち、3回が秋法務部長官によるユン検察総長に対するもの。これを見るだけで、文政権による司法介入がいかに酷いかを物語っている。秋美愛氏は、朴槿惠政権末期から文在寅政権初期にかけての2016年8月～2018年8月の間、「共に民主党」代表を務めている。党代表として2017年5月の大統領選挙と、2018年6月の第7回全国同時地方選挙を勝利に導いた実績がある。朴政権弾劾という異常心理下での選挙で勝ったというフロッグ勝利とも言える。だが、勝利は勝利である。与党代表であった秋氏の選挙采配が良かった面もあろう。議員にとって「選挙に強い」という実績は何にも勝ること。秋氏が法務部長官として、やりたい放題にできる背景のひとつはこれだ。もうひとつは、韓国政界に漲る「反ソウル大学意識」の強さを生かしている点である。韓国与党では、ソウル大学を廃校にしようという潜在的な動きがある。ソウル大学は、戦前の日本が創立した京城帝国大学である。韓国エリート層を輩出してきただけに、「非ソウル大卒」には目障りな存在に違いない。秋法務部長官の出身大学は、私学の漢陽大学である。ユン検察総長は、「運悪く」ソウル大学卒である。こうなると、与党にくすぶる「ソウル大学廃校論者」にとっては、ユン検察総長が格好の「イビリ対象」になっているに違いない。それにしても、個人感情で政治を行うという、韓国特有の悪弊が韓国政治に大きな混乱をもたらしている。そのことに、文大統領も気付かず、個人感情を正義と間違えているのだ。韓国の悲劇は、まさにここにある。反日になった元凶は学校教育反日も、その原因を探れば学校教育にある。教育現場は本来、偏ったことを教える場ではない。「人類はみな兄弟」という理想論を説く場所である。それが、韓国では逆だ。「民族差別」を教え込んでいる。この倒錯した教育は、米国では違法とされるもの。こういう感情論で公教育を行っている韓国だから、政治においても個人感情丸出しの争いを演じるのだろう。そう言っては叱られるが、「公を重視する」という民度引き上げ努力が最も必要である。「感情8割・理性2割」では、国際社会において排斥されるだけなのだ。
上記の書き込みから・・・
これは、その最初である。以下の書き込みは、省略した。
もう、これで充分である。
この書き込み人は、確実に、韓国が潰れると言う。
私は、すでに、韓国という国は、無いと思っている。
国もどき、があるという程度だ。
一時期、私は、韓国の歴史物、時代物の、映画、テレビ番組を見て、一体、朝鮮人が、何を考えているのかと、探ったことがあった。
見事だったのは、どんな番組でも、まず、「民のため」という言葉が、印象的だった。
これは、つまり、朝鮮とは、民の無い、あるいは、民など存在しないかのような、地域だったと、考える。
では、一体、誰が存在していたのか・・・王と、貴族、つまり両班、ヤンバンという、連中である。
王様は、大陸から認められて、王となる。大陸の皇帝である。
つまり、属国。だから、自分の国という意識が、稀薄で、国もどき、が、存在していると、感じていたと、思われる。
そして現在も、また、国もどき、なのである。
感情8理性2・・・とは・・・そんな民が、国を保てるとは、思えない。
その逆であろう。
私などは、感情的な人間であるが、少なくとも、日本人であることで、理性的になっていると、思う。
朝鮮人より、私は、感情的な人間だと、認識している。その私が、韓国の有様を見て、呆れる。
よくぞ、これで、国が成り立つものだと、思う。更に、日本より、経済的に成功している・・・との話で・・・
そうなると、頭が、おかしくなる。
朝鮮半島とは、単なる、市場のような地域である。人の行き来があり、そこが、故郷なのだと思えない、土地柄である。
沢山の番組を見て、本当に、あちらは、嘘偽りが当たり前の場所と、認識した。ちなみに、その歴史観は、大嘘である。
歴史を捏造しているのではない。あちらは、歴史は、夢なのである。そして、願望である。
ただ、気の毒である。
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><p>国家の秩序・風紀が乱れるときは、司法の乱れから始まる。韓国では、正邪を糺（ただ）す役割の司法が、完全に文政権擁護に回っているのだ。中立であるべき司法が、政権擁護に回れば世の中は真っ暗闇である。</p><p>その中でただ一人、尹錫悦（ユン・ソクヨル）検察総長が秋美愛（チュ・ミエ）法務部長官から捜査指揮権を3度も奪われながら、辞表も出さず孤塁を守っている。</p><p>韓国で、最後の希望はこのユン検察総長が、政権の弾圧に屈せずに任期中、その職に止まって欲しいということだ。</p><p>日本では、考えられない情景である。検察は、政治から中立であるのが常識であるからだ。ただ最近、日本で次期検事総長人事を巡って、政府が定年延長を検討する法案を準備し、野党や国民の非難を浴びて取り止めた一件がある。</p><p>国民の批判を集める司法人事は、剛腕政府といえども実現不可能である。それは、検察と政権の癒着が懸念されるからだ。</p><h3><strong>法務部長官の恣意性が生む大混乱</strong></h3><p>韓国では、それが政治の力で強引に行われている。指揮するのは、秋法務部長官である。</p><p>秋氏には文大統領の信任があるとはいえ、秋氏が判事出身という経歴を見ても分かるように、やってはならない「捜査指揮権」を現在の検察総長に対して4度も発動させている。韓国の捜査指揮権発動は、過去4回を数えるのみだ。そのうち、3回が秋法務部長官によるユン検察総長に対するもの。これを見るだけで、文政権による司法介入がいかに酷いかを物語っている。</p><p>秋美愛氏は、朴槿惠政権末期から文在寅政権初期にかけての2016年8月～2018年8月の間、「共に民主党」代表を務めている。党代表として2017年5月の大統領選挙と、2018年6月の第7回全国同時地方選挙を勝利に導いた実績がある。朴政権弾劾という異常心理下での選挙で勝ったというフロッグ勝利とも言える。だが、勝利は勝利である。与党代表であった秋氏の選挙采配が良かった面もあろう。</p><p>議員にとって「選挙に強い」という実績は何にも勝ること。秋氏が法務部長官として、やりたい放題にできる背景のひとつはこれだ。</p><p>もうひとつは、韓国政界に漲る「反ソウル大学意識」の強さを生かしている点である。韓国与党では、ソウル大学を廃校にしようという潜在的な動きがある。ソウル大学は、戦前の日本が創立した京城帝国大学である。韓国エリート層を輩出してきただけに、「非ソウル大卒」には目障りな存在に違いない。</p><p>秋法務部長官の出身大学は、私学の漢陽大学である。ユン検察総長は、「運悪く」ソウル大学卒である。こうなると、与党にくすぶる「ソウル大学廃校論者」にとっては、ユン検察総長が格好の「イビリ対象」になっているに違いない。</p><p>それにしても、個人感情で政治を行うという、韓国特有の悪弊が韓国政治に大きな混乱をもたらしている。そのことに、文大統領も気付かず、個人感情を正義と間違えているのだ。韓国の悲劇は、まさにここにある。</p><h3><strong>反日になった元凶は学校教育</strong></h3><p>反日も、その原因を探れば学校教育にある。教育現場は本来、偏ったことを教える場ではない。「人類はみな兄弟」という理想論を説く場所である。</p><p>それが、韓国では逆だ。「民族差別」を教え込んでいる。この倒錯した教育は、米国では違法とされるもの。こういう感情論で公教育を行っている韓国だから、政治においても個人感情丸出しの争いを演じるのだろう。そう言っては叱られるが、「公を重視する」という民度引き上げ努力が最も必要である。「感情8割・理性2割」では、国際社会において排斥されるだけなのだ。</p><br /><p>上記の書き込みから・・・</p><br /><p>これは、その最初である。</p><p>以下の書き込みは、省略した。</p><br /><p>もう、これで充分である。</p><br /><p>この書き込み人は、確実に、韓国が潰れると言う。</p><br /><p>私は、すでに、韓国という国は、無いと思っている。</p><br /><p>国もどき、があるという程度だ。</p><br /><p>一時期、私は、韓国の歴史物、時代物の、映画、テレビ番組を見て、一体、朝鮮人が、何を考えているのかと、探ったことがあった。</p><br /><p>見事だったのは、どんな番組でも、まず、「民のため」という言葉が、印象的だった。</p><br /><p>これは、つまり、朝鮮とは、民の無い、あるいは、民など存在しないかのような、地域だったと、考える。</p><br /><p>では、一体、誰が存在していたのか・・・</p><p>王と、貴族、つまり両班、ヤンバンという、連中である。</p><br /><p>王様は、大陸から認められて、王となる。</p><p>大陸の皇帝である。</p><br /><p>つまり、属国。</p><p>だから、自分の国という意識が、稀薄で、国もどき、が、存在していると、感じていたと、思われる。</p><br /><p>そして現在も、また、国もどき、なのである。</p><br /><p>感情8理性2・・・とは・・・</p><p>そんな民が、国を保てるとは、思えない。</p><br /><p>その逆であろう。</p><br /><p>私などは、感情的な人間であるが、少なくとも、日本人であることで、理性的になっていると、思う。</p><br /><p>朝鮮人より、私は、感情的な人間だと、認識している。</p><p>その私が、韓国の有様を見て、呆れる。</p><br /><p>よくぞ、これで、国が成り立つものだと、思う。</p><p>更に、日本より、経済的に成功している・・・との話で・・・</p><br /><p>そうなると、頭が、おかしくなる。</p><br /><p>朝鮮半島とは、単なる、市場のような地域である。</p><p>人の行き来があり、そこが、故郷なのだと思えない、土地柄である。</p><br /><p>沢山の番組を見て、本当に、あちらは、嘘偽りが当たり前の場所と、認識した。</p><p>ちなみに、その歴史観は、大嘘である。</p><br /><p>歴史を捏造しているのではない。</p><p>あちらは、歴史は、夢なのである。</p><p>そして、願望である。</p><br /><p>ただ、気の毒である。</p><br /></div><a name="more"></a>

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            <category>日々の言い分15</category>
      <author>木村天山３</author>
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